.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}山梨(やまなし) 勝之進(かつのしん)
海軍大将時代に撮影
生誕1877年7月26日
日本・宮城県宮城郡仙台
死没 (1967-12-17) 1967年12月17日(90歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1897年 - 1933年
最終階級 海軍大将
除隊後学習院長、海上自衛隊幹部学校特別講師
墓所青山霊園
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山梨 勝之進(やまなし かつのしん、1877年〈明治10年〉7月26日 - 1967年〈昭和42年〉12月17日)は、日本の海軍軍人。海兵25期次席・海大5期。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。
主だった軍歴を軍政部門に歩み、山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐ人物と目されていた。
秦郁彦は、下記のように評している。そのまま日本海軍が波乱なくいけば、兵学校七期の加藤友三郎のあと、二十五期の山梨、三十二期の堀とくるのが、海軍軍政の表看板だったと私は見ています。ロンドン条約で山梨以下がひっくり返っちゃったんです。 ? 秦郁彦、[1]
いわゆる条約派の1人。また帝国海軍の77名の大将のうち、艦隊司令長官職を経験していない9名のうちの1人である。
海軍の現役を退いた後に学習院長[注釈 1]を務め、皇太子・明仁親王の教育を担った。 宮城県宮城郡仙台出身[3]。旧仙台藩士(上士[4])山梨文之進の長男として生まれ、宮城英学校を経て海軍兵学校(25期)に入校、次席で卒業して恩賜品を拝受[5][6]。海兵25期の同期生には、松岡静雄、鳥巣玉樹、四竈孝輔らがいる。海軍大学校甲種学生5期を卒業[7]。 山本権兵衛の副官などを務め、ワシントン軍縮会議では全権随員として加藤友三郎を補佐。人事局長在任中は軍縮条約を日本国内で反映させるべく尽力し、また海軍大臣・財部彪に鹿児島優遇人事をやめるよう進言している[8]。 中将の時に海軍次官を務め(1928年(昭和3年)12月10日- 1930年(昭和5年)12月1日)、1930年1月 - 4月に開催されたロンドン海軍軍縮会議を妥結させるために奔走した。反対勢力から暗殺される危険があったが、軍務局長・堀悌吉、海軍省先任副官・古賀峯一と共に、暗殺される覚悟で所信を貫いた。軍縮会議全権となった海軍大臣の財部彪が不在のため、山梨が海軍省を預かり、岡田啓介(前・海軍大臣、軍事参議官)の助力を得て、艦隊派の軍令部次長・末次信正をして「山梨のごとき知恵ある人物にはかなわず」[9]と言わしめる活躍であった。 ロンドン海軍軍縮会議の際に反対派が持ち出した理論が統帥権干犯であるが、山梨の見解は下記の通り[10]。統帥権問題に対する海軍の全般的な態度は、もともと、憲法解釈は枢密院の権限であるのにかんがみ、われわれが憲法論などを言ってみたところで世間の物笑いになるだけであり、アメリカの態度、予算の問題などで頭がいっぱいで、海軍省及び軍令部において、考えたことも、言ったこともなく、興味もなければ研究したこともなかった。
概要
海軍士官となる
ロンドン軍縮会議