俳優の「山根和馬」とは別人です。
やまね かずま
山根 一眞
生誕 (1947-10-12) 1947年10月12日(76歳)
出身校獨協大学
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山根 一眞(やまね かずま、1947年〈昭和22年〉10月12日 - )は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、獨協大学経済学部特任教授。東京都出身。明治学院中学校、明治学院東村山高等学校(同校の第1期生)を経て、獨協大学外国語学部ドイツ語学科卒業。元NHK『ミッドナイトジャーナル』『未来派宣言』キャスター。作家・西村寿行のデータマンをしていた時期もある[1]。 父である山根章弘は、美学者で東京音楽大学教授、それ以前は東映動画に勤務し、日本初の長編カラーアニメーション『白蛇伝』の制作に原案として上原信のペンネームで参加。長女は日経エネルギーNext編集長の山根小雪。 アマゾンにおける環境問題の取材を30年に渡って行っている。週刊ポストの連載『メタルカラーの時代』は、日本のモノづくりの最前線を取材したもので700回を超える長期連載となっている。1998年(平成10年)東京クリエーション大賞で、個人としては初の大賞を受賞。宇宙科学研究所客員教授。2005年(平成17年)愛知万博のプロデューサーもつとめた。 若い頃は宮沢賢治に傾倒しており、20歳の誕生日に花巻市の賢治の実家を訪れ、賢治の実弟である宮沢清六と並んで記念写真を撮影している(『宮沢賢治への旅』(文春文庫ビジュアル版、1991年)に寄稿した文章に掲載)。 1964年(昭和39年)の新潟地震では、東京から新潟へ護送中だった囚人が地震の影響で行方不明になり、見附警察署で確保したものの警察無線が混乱しており、東京で中々傍受できなかった。それを偶然にも傍受したのが高校2年生だった山根であり、彼は囚人の出発地である中野刑務所へ内容を連絡、協力したという[2]。新潟地震の際に傍受したのは警察無線ではなく、7メガヘルツ帯のアマチュア無線である。トリオの9R-59受信機にて、新潟と東京のハムの非常通信を傍受し、中野刑務所へ電話で伝えたという[3]。
人物・エピソード
デジタル製品が好きで、カシオのデジタルカメラQV-10を早くから愛用していた。Macintoshのヘビーユーザとしても知られる[4]。
ニッポン放送で放送されていた『上柳昌彦 ごごばん!』内の15時台コーナー「ハートフルライフ プレミアムトーク」木曜レギュラーとして出いた中。また前身番組であった『高嶋ひでたけの特ダネラジオ 夕焼けホットライン』の「特ダネトーク」でも木曜レギュラーを務め、2009年9月1日の放送では高嶋夏季休暇中時の代理パーソナリティを担当した。
著書
『中古車商人 いい中古車・悪い中古車』交通タイムス社 1978
『アマゾンで日本人はガランチードと呼ばれた 地球最後のフロンティアでの1/2世紀』内田老鶴圃新社、1980年1月。NDLJP:12215717