山村美智
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やまむら みち
山村 美智
本名宅間 美智子
別名義山村 美智子(旧芸名)
生年月日 (1956-11-05)
1956年11月5日(67歳)
出生地 三重県伊勢市
身長166cm
血液型B型
職業女優
ジャンルテレビドラマ・映画・舞台ほか
活動期間1989年 - 現在
配偶者宅間秋史
主な作品
ドラマ
私の運命』(1994年 - 1995年)
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やまむら みちこ山村 美智子
プロフィール
出身地 日本 三重県
国籍日本
生年月日 (1956-11-05) 1956年11月5日(67歳)
血液型B型
最終学歴津田塾大学学芸学部英文学科
所属事務所イトーカンパニー
職歴フジテレビジョン1980年 - 1985年
活動期間1980年 - 1988年
ジャンルバラエティー報道番組
出演番組・活動
出演経歴オレたちひょうきん族
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

山村 美智(やまむら みち、1956年11月5日 - )は、日本フリーアナウンサー女優。元フジテレビアナウンサー。本名、宅間 美智子(たくま みちこ)。旧芸名、山村 美智子(やまむら みちこ)。夫は、元・フジテレビ社員(プロデューサー)で制作会社「(株)サンダーストームエンターテイメント」初代CEO宅間秋史
略歴

三重県伊勢市の出身[1]で、血液型はB型。小学校卒業後、中高一貫校であるセントヨゼフ女子学園高校[2]から津田塾大学学芸学部英文学科へ進学[2]。大学在学中から女優志望で、大学卒業後は英語の教員になることが内定していた[2]が、それを断って大学4年生の12月にミュージカル劇団「東京キッドブラザース」に入り活動していた[2]

しかし東京キッドブラザースは理想とは合わず1979年に退団[2]。大学卒業後の1980年、アナウンサーとしてフジテレビに入社[3][4]。同期入社に、土井尚子(現姓名:坂野尚子。ネイルクイック 実業家)、黒岩祐治(現:神奈川県知事)、亀山千広(前:フジテレビ社長)、松本方哉、横山淳(現:福島テレビ社長)、本間欧彦(現:北海道文化放送常務取締役編成局長)。

フジ時代には、『オレたちひょうきん族』の初代ひょうきんアナウンサー[5][6]として、「ひょうきんベストテン」などのコーナーに出演。入社直後でまだレギュラー番組が少なく、焦りを感じ始めていた頃に、当時のアナウンス部長から「『ひょうきんベストテン』のコーナー(でアシスタントを)やらない?」との誘いを受けたことがきっかけで出演を決めたという。同コーナーへの出演により一躍人気となり、一部マスコミから「アイドルアナウンサーの草分け的存在」とも言われるようになった[1]

1984年、同僚(当時はフジテレビ制作局のプロデューサー)の宅間秋史と結婚[6]。翌1985年に退社後、フリーアナウンサーとして、同局の『FNN DATE LINE』で平日にニュースキャスターを務めていた[7]。後に女優へ転身。2001年には、芸名を山村美智子から山村美智に改めた。

2002年2003年には、『私とわたしとあなたと私』という二人芝居の脚本を執筆。自身の主演・演出による舞台作品として、実際に上演された。2003年には新宿シアタートップスで上演されていて、吉川ひなのを相手役に迎えている。

2003年から2008年まで、ニューヨークに滞在。2007年には、『私とわたしとあなたと私』の英語版に当たる『I and Me & You and I』が、オフ・ブロードウェイのブリーカーズ劇場で上演された。日本人が日本語で執筆したオリジナルの脚本を英語に翻訳したうえで、舞台作品としてオフ・ブロードウェイで上演した事例は初めてで、アメリカ人からも現地在住の日本人からも絶賛された。上演前に親友の深浦加奈子に相談していた事を自身のブログ内で語っている。2009年の帰国を機に、日本での女優業を再開。
人物
子供時代

伊勢市で建設会社を営む父と専業主婦の母の3人家族だったが、3歳の頃に父が亡くなり会社が倒産。小さな一軒家に引っ越した後キッチンを除く1階を人に貸して2階の一間で母と暮らし始め、ほどなくして保険の外交員となった母に育てられる[1]

幼少の頃は、気弱な性格で体も弱く幼稚園を休みがちだった。人生で初めて演じた役は、幼稚園の学芸会で演じた『白雪姫』の白雪姫を案内するうさぎの役[注 1]。セリフは一言だけだったが、本人は後年「演じてすごく嬉しかったのを鮮明に覚えています」と回想している[1]

小学生になるとテレビドラマを見ては女優に憧れを持つようになり、国語の朗読が好きになった。制服に憧れて中学からセントヨゼフ女子学園に進学し、演劇部に入部。高校1年生の時に上演した『クリスマスキャロル』で主役のスクルージ役を演じ、脚本と演出もこなした。大勢の生徒たちの前で演じる楽しさと、シスターからも好評価を得て芝居に対する喜びを感じ、本格的に女優を目指すようになる[1]
大学時代

上京を決意して津田塾大学に進学し、小平市のキャンパス内にある学生寮で暮らし始めた。同時期から一橋大学との劇団サークル・劇団己疑人(コギト)に入団し、演劇漬けの日々を送る。しかし、その後東大の学園祭で野田秀樹の芝居を観て衝撃を受け、才能の差を感じてしまい女優を諦めようとする。4年生になった頃に教師になることを決めて、母校の校長に志願する手紙を書いて内定をもらった[1]

残りの大学生活は、観客として芝居を楽しもうと東京キッドブラザースの公演を観に訪れた。するとチケット売り場に現れた劇団主宰の東由多加から、直々に「あなた、女優になりませんか?」と誘われた。これにより女優活動を続けることを決め、母に「一年だけ」との条件で芝居を続けることを許された[注 2]

1978年12月に同劇団の稽古に加わり、同年末の公演に参加し(一般の女優としての)初舞台は日本武道館だった。ちなみに大学3年生から国立駅近くの四畳半のアパートで暮らしながら家庭教師のバイトをし、大学院浪人中の恋人と付き合っていた。その後母と約束した1年が来て同劇団を退団[1]
エピソード

「ひょうきんベストテン」では、元ネタになった『ザ・ベストテン』TBS)における黒柳徹子の司会振りを参考に、黒柳のパロディを交えながら進行していた。当時(1980年代)の放送局では社員である女性アナウンサーにスタイリストを付けていなかったため、収録には山本寛斎などの衣装を借りて出演。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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