山本昌
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山本昌(山本 昌広)現役時代
(2009年4月2日、ナゴヤ球場にて)
基本情報
国籍 日本
出身地神奈川県茅ヶ崎市
生年月日 (1965-08-11) 1965年8月11日(58歳)
身長
体重186[注 1] cm
87[注 2] kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1983年 ドラフト5位
初出場1986年10月16日
最終出場2015年10月7日(公式戦)
2016年3月5日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


日本大学藤沢高等学校

中日ドラゴンズ (1984 - 2015, 2016)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2022年
得票率85.0%(361票中307票)
選出方法競技者表彰(プレーヤー部門)
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山本 昌[注 3](やまもと まさ、本名・旧登録名:山本 昌広〈やまもと まさひろ〉[注 4]1965年昭和40年〉8月11日 - )は、東京都大田区生まれ、神奈川県茅ヶ崎市出身の元プロ野球選手投手、左投左打)、解説者評論家・スポーツコメンテーター。史上最年長勝利の投手記録を持つ[5]
概要

現役時代の全ての期間において中日ドラゴンズに在籍したフランチャイズ・プレイヤーで、日本記録である実働29年間の大半を先発左腕として活躍し、6度のセ・リーグ優勝、1度の日本一を経験した。また、2006年にはNPB史上最年長、左腕に限れば世界最年長となる41歳でのノーヒットノーラン、2008年には同じく史上最年長での200勝を達成。2015年10月にNPB史上初となる50代での登板を花道に引退するまで「中年の星」と呼ばれ、注目された[6][7]
経歴
出生から中学卒業まで

1965年8月11日、男3兄弟の次男として誕生。生まれた時には体重が4,200gあった[8]。出生当初の山本を見た看護師が「この子は相撲取りにするしかない」と言ったと、山本は母から聞いている[8]。1歳の頃、当時東京都大田区にあった自宅アパートから転落して死にかけ、頭蓋骨陥没骨折により1か月の入院を余儀なくされた。その後も左の額の上から右の後頭部にかけて骨折の痕跡が残ったというほどの重症であり、事故が起こった際に医者は「今夜がヤマだ」と宣告したが回復を果たし、小学校入学前に脳波検査を受けた際には「異常なし」であった[9]。1歳の頃から牛乳をジュース代わりに飲んで体を作ったと豪語するほどで、1日2リットル飲むこともざらであったといい、小学生になると牛乳が嫌いな友達はみな山本の元へ給食の牛乳を持って行ったという[8]。山本の幼少期は、野球で遊ぶのが当たり前の環境で育った[10]

茅ヶ崎市立松林小学校茅ヶ崎市立松林中学校出身で[11]、中学に進学すると昼食は弁当持参で牛乳のみが配られるが、山本は牛乳が好きであったのでご飯との組み合わせでも平気で口にできたといい、このような牛乳好きが体作りに大きく貢献したという見方もある[12]。野球チームに初めて入ったのは小学3年生の時[13]。初めて試合を行ったのは4年生の時であるが、当時所属していた「緑ヶ丘グリーンタイガース」は『がんばれ!ベアーズ』に例えられるほどの弱小チームであり、ゴロは弾くわフライは落とすわで、結局0-36という大敗に終わった[14]。山本はこの時を「それでも楽しかった」と振り返っており、同時に「ほかに楽しみがなかったからと言えばそうかもしれない」とも付け加えている[14]。因みにその次の試合は0-10と失点数が大幅に減少しており、著書で「へたでもうまくなれる。そこが野球の楽しさでもあるのだから」と解説している[14]。小学校6年生になると横浜市から茅ヶ崎市へ転居したが、そこで見つけた「ブラックサニーズ」では挫折し、エースにはなれなかった[15]。中学時代は軟式野球部に所属しており、2年生の時にエースを張っていた同級生が腰を患ったため自身がエースナンバーを託された[15]。中学校3年の夏、所属する野球部で神奈川県大会に出場し[16]日大藤沢高にスポーツ推薦で入学する[17]。山本は後に「この活躍があってやっといくつかの高校からの勧誘を受けたが、それがなければ普通に受験をして学力に見合った県立高校に進学していた」と述懐している[15]
高校入学からプロ入りまで

日大藤沢高時代は推薦入部だけでも姓が「ヤマモト」の部員が3人おり、山本は出身中学が「松林中学」であったことから「ショーリン」と呼ばれていた[18]。高校2年夏、高校3年夏共に、神奈川大会準々決勝敗退。特に前者の敗戦は2009年の時点では山本が「野球人生で最も泣いた試合」であった[19]2013年第95回全国高等学校野球選手権大会優勝校・前橋育英監督の荒井直樹は1年先輩で、当時ともに8キロのロードワークをこなすようになってから力が付いたと感謝している[20]。当時の日大藤沢高の野球部監督・香椎瑞穂に関して山本は「雑誌や本で突出した実績を調べたが、不思議と怖さはなかった。難しいことも言われなかった」という趣旨の人物評を出している[21]

高校時代は春・夏とも甲子園出場こそできなかったが[3]、3年次・1983年夏の神奈川大会では「県下ナンバーワンの左腕投手」として注目され[22]ベスト8入りを果たし、日韓親善野球では神奈川県代表の一員に選抜された[3]

香椎は山本を同期の別の部員一人とペアで日本大学に推薦する。山本本人も高校卒業後は日本大学経済学部に進学し教師を目指すつもりでいた[23]。その一方で阪神タイガースのスカウトと、近鉄バファローズのスカウトを務めていた佐々木恭介が山本を熱心に視察していたが、本人は入団しないつもりでいた[24]。神奈川県高校選抜チームの一員として韓国高校選抜チーム相手に好投したことなどが評価され、1983年のドラフト会議中日ドラゴンズから5位指名を受けた[25]。指名を受けた直後は『神奈川新聞』の取材に対し「進学しか頭になかったし、指名されるなんて思ってもいなかったので驚いている。監督・両親とよく相談する」とコメントしていたが[4]、香椎に「おまえならプロでやっていける」と激励を受け、また山本のプロ入団がペアで推薦されていた別の部員の進学に支障を来さないこととなったこと、父親が長野県出身の中日ファンだったことが最終的に大きな決め手となり「おやじが喜ぶ」と入団を決意した[26][27]。当時の契約内容は契約金2500万円・年俸300万円だった[3]。担当スカウト高木時夫[28]

山本はドラフト指名を受けた旨を教師から伝えられた当初は「地元・神奈川県の横浜大洋ホエールズじゃないんだ」という印象を抱いていたが、2013年に山ア武司とともに共著として出版した『進化』(あさ出版)にて「ドラフトから30年経った今では中日に入ってよかったと思っているし、中日以外の球団だったらとうの昔に野球をやめていただろう」と述懐している[29]
プロ入り後
1980年代

入団当時、野球解説者だった星野仙一(1987年より監督)は「背番号が34で左投げというから『金田2世』と期待してブルペンを見に行ったが、ただの大柄な男で、あまりに不恰好なモーションでコントロールもない。球も130km/h前後しか出ないからがっかりした」と語っており、1986年の秋季キャンプでも「いつになったら本気で投げるんや」と呆れたという[30]。山本本人も「小松辰雄さんのピッチングを見て、とんでもない所に来てしまったと思った」と回顧している。大柄なだけで野球の才能に恵まれていないことは当の山本も自覚しており[31]、自身がプロ入りできたのは左投げ投手であるところが大きいと後に振り返っている[32]

1986年シーズン終盤の消化試合で一軍初登板を果たした。翌1987年には開幕一軍入りしたが、4月14日の対広島東洋カープ戦でのナゴヤ球場一軍初登板でを痛め(のちに疲労骨折と判明)[33]、その後登板機会がないままシーズンを終了する[17]。1年目の防御率は27.00、2年目は16.20と、この数字から判断するに当時は山本が一軍の戦力になるとは自分自身を含めて誰も思っていなかった[34]

1988年2月、中日は業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチ(英語版)でキャンプを行い、山本ら若手選手5人[注 5]が野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる[36]。しかし、実情は中日がドジャースとの交流関係を保つために、その年の戦力にならない選手を選んで派遣する必要があったため、この立場は強化選手の指定などではなく、むしろ極めて戦力外通告に近いものと言えた。しかし同時に、山本の選出については「手足は長いし、体も大きい。巨体揃いの本場アメリカの指導者ならこういう選手の扱いに慣れている分、うまくいくかもしれない」という一縷の望みを掛けられた結果でもあった[37]

この年のオープン戦第1戦ではノックアウトされており、星野からは「死ぬまで走っておけ!」と命じられ、その日は2、3時間は走った[38]。それからしばらくして、ドジャース傘下のマイナーリーグ (1A) ベロビーチ・ドジャースに所属することになり、チームメイトと帯同してフロリダ・ステートリーグ(1A)で試合を行うことになる[38]。留学生という立場上頑張ったところで2Aへの昇格もあるはずもないためふてくされていたが、現地の選手たちが1Aで優勝するという目標を宣言していたことからふてくされていた自分を反省[39]。そして、そこで前年に山本を指導していたドジャースの世話役・アイク生原との再会が人生の転機となる[40]。生原からは投手の基本である低めへのコントロール、スローカーブの精度の向上、その他生活習慣を厳しく指導されたが、特に大きかったことは消えかけていた野球への熱意や楽しさを再び思い出させてくれたことであったという。

3月ころ、生原がドジャースの往年の名投手サンディー・コーファックスに山本のピッチングを見せたところ、「アイク、あのピッチャーはだめだよ。彼はサイドスローにするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」という評価だったという[41]


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