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国籍日本
母語表記山本昇雲
姓山本
読み仮名やまもと しょううん
生年月日30 12 1870
死亡年月日10 5 1965
埋葬地青山霊園
職業浮世絵師、画家、リトグラファー、木口木版家
師匠河田小龍、滝和亭
ムーブメント日本画
コレクション所蔵者ミネアポリス美術館
作者の著作権状態著作権保護期間満了
山本 昇雲(やまもと しょううん、明治3年11月9日〈1870年12月30日〉 - 昭和40年〈1965年〉5月10日[1])は、明治時代から大正時代にかけて制作した浮世絵師で日本画家、石版画家で報道画家。名は茂三郎といい、昇雲のほか小斎、松谷と号す。 出身は高知県長岡郡後免町(現・南国市)、生家の古物商は江戸時代、旧土佐藩の郷士であった。二男として生まれた山本茂三郎が6歳頃から師事した柳本圭吾(号「洞素」)は駿河台狩野家・狩野洞白
来歴
出自と修行時代
明治19年(1886年)、大阪に出て陶器の絵付けをしながら絵は独学で続けると、19歳の明治21年(1888年)に上京し、翌年から明治28年(1895年)頃まで南画家の滝和亭門下に入り、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}画号は「昇雲」「松谷」と改める[疑問点 – ノート]。この頃[いつ?]家族があり、週2回、横浜の女学校[疑問点 – ノート]の絵画教師を勤める傍ら、三越や貴金属商の天賞堂から仕事を受けて金銀銅器や指輪などのデザイン画、染織物の原図を描くなどして生計を立てた。 滝和亭門下にいた明治27年(1894年)、東陽堂のグラフ雑誌『風俗画報』に投稿した「土佐国早乙女図」が山下重民編集長の目にとまると、絵は『風俗画報』第73号に掲載された。当人はこれを機に絵画部員として雇われて以降、「山本松谷」の名義で毎号のように『風俗画報』に石版画の挿絵を描くことになる[注釈 1]。当時の同誌の口絵や挿絵には現代の報道写真に当たる意味があり、同僚に小林永濯、川崎千虎、尾形月耕、富岡永洗、久保田金僊らがいる。 月刊誌と並行して、『風俗画報』臨時増刊全64編で江戸時代の名著『江戸名所図会』になぞらえた『新撰東京名所図会』を担当する。これら挿絵の掲載は明治29年(1896年)9月から明治42年(1909年)3月まで10年以上にわたり、石版画家として山本の名声を高めた。作品点数およそ1300点、口絵、挿絵に加えて表紙にも採用されると、その名は[いつ?]報道画家として知られるようになる[3][4]。 雑誌『華の江戸』の口絵号数執筆者
『風俗画報』の報道画家・山本松谷
(1)[5]三遊亭圓馬
(2)[6]二代目團十郎
(5)[7]
(6)[8]