山本悍右
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武将の「山本勘助」とは別人です。

山本 悍右
やまもと かんすけ
山本悍右像
本名山本 勘助(読み同じ)
誕生日 (1914-03-30) 1914年3月30日
出生地 日本愛知県名古屋市
死没年 (1987-04-02) 1987年4月2日(73歳没)
国籍 日本
運動・動向シュルレアリスム
芸術分野写真家詩人
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山本 悍右(やまもと かんすけ、1914年3月30日 - 1987年4月2日)は、日本写真家詩人。日本におけるシュルレアリスムを代表する草分け的存在である。
来歴『独立』B.1. 1932年1月
独立写真研究会 刊
表紙写真:山本勘助(悍右)
出生

愛知県名古屋市栄区鉄砲町(現・中区)生まれ。本名、勘助。明治45年(1912年)の愛友写真倶楽部創立会員で代表であった山本五郎(1880年-1941年)の長男。実家、山本五郎商店は名古屋広小路で写真機械店と写真館を営んでいた。
シュルレアリスムとの出会い

昭和初期『詩と詩論』、『cine´』(シネ)を通してシュルレアリスムを知り、15歳頃より作詩を始める。名古屋第二商業学校卒業後上京、アテネ・フランセフランス語を学んだ。治安維持法下の東京で左翼思想に触れ、以後革命にほのかな夢を抱くようになる。明治大学を中退、名古屋に戻り、1931年、17歳の時、新興写真グループ「独立写真研究会」の結成に参加、会誌『独立』に作品を発表、早熟な才能を発揮していった。
シュルレアリストとしての山本悍右『VOU』 第30号 1940年
表紙写真:山本悍右『夜の噴水』 第1号
1938年11月1日
編集・発行人:山本悍右
写真:山本悍右

1932年4月、『独立』B・2号に発表された“或る人間の思想の発展 靄と寝室”(現・名古屋市美術館蔵)は山本悍右の発表された作品として現存する最も古い作品である。1938年、「青憧社」を結成し、会報『CARNET BLEU』を編輯、発行。戦時下、国策により出版物が日本名に改称させられて行く中、1942年8月、第5号(終刊)までタイトルにはフランス語を使用、刊行した。

1936年、名前を悍右とする。

1938年、『夜の噴水』を編輯、刊行[脚注 1]。官憲の圧力により1939年10月、4号で終刊となる。

1939年には、山中散生下郷羊雄坂田稔らとナゴヤ・フォトアバンガルドを結成。1939年より、北園克衛の「VOU」会員となり1978年の解散まで『VOU』誌上、「形象展」に作品を発表した。『CARNET BLEU』
青憧社会報 第1号
1941年3月刊
編集・発行人:山本悍右

戦前から「哲学会」会員であった山本は1940年『フォトタイムス』7月号に当時の国家権力による言論、思想弾圧を描いた作品3点を発表し、それに「・・・・・・牢獄の暗い石壁のなかにも自由があるように」と書き添えている。掲載作品“伽藍の鳥籠”[脚注 2] の伽藍は権威、鳥籠は牢獄、電話機は言論であることが読み取れる。

戦後も「VIVI」(1948-1950)、「美術文化協会写真部」(1949-1954)、「窓」(1953-1958)、「炎」(1955-1961)、「日本主観主義写真連盟」(1956)、「ESPACE」(1956-1958)、「アルキシネ」(1958)、「前衛詩人協会」(1958)、「ナゴヤファイブ」(1963-1964)を結成。

戦前から戦後の半世紀以上におよぶ長い期間を一貫して前衛写真家・詩人として活躍、その写真作品は自由、反戦、反権力を軸としたシュルレアリスム系の華麗な作品が多い。
晩年

1965年頃より中部学生写真連盟顧問として10年間程後進の指導にあたった。

1987年名古屋市にて肺がんで死去、生前の意志により名古屋大学医学部に献体され医学の進歩のために提供された。
人物像山本・北園・辻 1959年
第12回VOU形象展会場にて

“ぼくはたいへん早熟な少年であったが、たばことか酒などに示す大人のスタイルに全く興味がなかった。”[1]

“「多分にニヒルチックで、執拗で、そして本を愛する男」だと下郷羊雄が評した。”[2]

“僕は立身したり、ひとから認められる人間にはなってやらない。彼等のスノビスムには決してまかれないぞ。僕は僕の清純なものを決して濁らせまい。”[3]

“僕は政治的にはアナアキイで、思想的にはエレジイなリベルタン、身の寄せるところがないのでボヘミアンたらざるを得ない。”[4]

“疑うことから疑ったモンテーニュは・・・・・とパスカルは書いた。ぼくの暗い谷間の遠い灯はもしかするとパスカルだったかもしれない。「思考する故にこそ人間の尊厳がある。だから正しく思考されるべきだ」身の回りから思想を身につけていくことは現代の私達のパスカル的転回だとはいえないでしょうか」”[5]

終生、本、レコード、パイプを放すことのなかった愛書家で愛煙家であった。

アンドレ・ブルトンから『BIEF』5号が贈られてきた。

詩人の北園克衛とは生涯の友であった。

山本悍右語録

“芸術作品と云ふものは、社会に於いてある何らかの出来合いのものに対する何らかの反抗精神に依って生まれる。その精神は次の新しい時代を指し示し動かせるものであるべきだ。純粋精神は新時代を招く予言的精神であるべき答えである。現代、この強烈なる意欲を僕たちは期待することが出来るのであろうか。時代への反逆を、そして時代意思の変革を。”
[6]

“日本の新聞は爆撃が人道的ではないと盛んに書いている。戦争は人道的なことだとでも思っているのかしら。いまさら、これは、はなはだ卑怯な言葉である。”[7]

“超現実は現実の中にあるという言葉とともに、新しい写真はたゆまない実験の中で新しい美しさを作っていく。”[8]

“抽象的な喋り方をしてまともなものを作っている東松。
ばらばらのものを組み立てるような説明的な話し方をしながら抽象的な作品を作る金。(加藤金一郎)ばらばらにこわした物体の物質的な言葉を並べて構成を考えない話し方をしながら具象の作品を作るオレ。どいつも生活とイデアが離ればなれだということなのだろうか。”[9]

“孤独がむりやり診断せられ、診断がより深い孤独を作っていく。・・・・・・・・二十世紀初期的自由はすでに今日孤独よりほかに与えるものがないのであろうか。”[10]

“生きかたが世間なみで社会制度の恩恵を利用しながら芸術は政治ではないと言っているのはおかしいだろう。”[11]

“カネをもうけるという経済成長のリクツはもうけたカネをその次のカネもうけに回すということでカネはつねにもうけるためにあるという。何におカネを使うかでその価値が決まるのだから成長のリクツはまさにバカげているといえる。”[12]

“オリンピックはもうけるためにやるべきだと言った人がいる。明快な発言だけどそれならオリンピックは商社で選手は商品、その商品に魅力をそえるのが記録だということになる”[13]

作品の収蔵

1989年
名古屋市美術館[14]

2000年 東京都写真美術館

2006年 サンタバーバラ美術館(Santa Barbara U.S.A.)

2009年 J・ポール・ゲティ美術館(ゲティ財団, Los Angeles U.S.A.) [15][16].

2017年 シカゴ美術館

2018年 Smithsonian's Freer 。Sackler, Washington DC

主要な展覧会Kansuke YAMAMOTO Exhibition 1956. Tokyo & Nagoya .


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