日本の政治家山本 宣治やまもと せんじ
山本宣治の肖像写真
生年月日1889年5月28日
出生地 日本・京都府京都市[1]
没年月日 (1929-03-05) 1929年3月5日(39歳没)
死没地 日本・東京府東京市神田区
出身校東京帝国大学理学部動物学科卒業[1]
前職大学講師
所属政党(労働農民党→)
日本共産党
配偶者山本千代
衆議院議員
選挙区京都府第2区
当選回数1回
在任期間1928年2月21日 - 1929年3月5日
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山本 宣治(やまもと せんじ、1889年(明治22年)5月28日[2] - 1929年(昭和4年)3月5日[3])は、日本の戦前の政治家、生物学者。京都府出身。山本宣治を略して山宣(やません)と呼ぶこともある。 1889年、京都府京都市の新京極で、花かんざし屋のワンプライスショップ(今でいうアクセサリー店)を営む山本亀松、多年の一人息子として生まれた[4][5]。両親は熱心なクリスチャンだった[4]。宣治の名は宣教師の「宣」に因んだ[5]。宣治は厳粛な耶蘇教主義の下に薫陶された[5]。 1901年、神戸中学校に入学したが、身体虚弱のため中退した[1]。両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後に料理旅館「花やしき浮舟園」に発展)で花づくりをして育った[4]。 園芸家を志して1906年、大隈重信邸へ住み込み、園芸修行を行う[1]。1907年からカナダのバンクーバーに渡る[1]。5年間、皿洗い、コック、園丁、鮭取り漁夫、列車給仕、伐木人夫、旅館のウェーター等30余種の職業を転々として傍ら小学校、中学校に通う[1]。1911年父が病気のため急遽帰国する[1]。この間に『共産党宣言』『種の起源』『進化論』などを学び、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流を深めた。 1912年、同志社普通部4年に入学する[1]。1914年、丸上千代と結婚[1]し、長男英治が誕生[1]。1917年、28歳の時に第三高等学校第二部乙類を卒業[6]し、東京帝国大学理学部動物学科に入学する。1920年、同大学を卒業した[1][7]。論文は『イモリの精子発達』[1]。理学士の称号を得た[5]。 大学を卒業して直ちに京都に帰り、京都帝国大学大学院に入学、染色体の研究に着手する[1]。傍ら同志社大学講師として『人生生物学』、『性教育』を講ず[1]。1921年、京都帝国大学医学部講師[8]として大津臨湖実験所[9]に通う[1]。 1922年3月、訪日していたアメリカの産児制限運動家マーガレット・サンガーと意見を交換して熱心な産児制限研究家となる[1]。サンガーに啓発された山本は、性教育啓蒙化の普及と産児制限の必要性を痛感し、安部磯雄や義弟の安田徳太郎と共に「産児制限運動」(山本自身は「産児調節」の語を使った)を展開していく。同年4月、サンガーの著書を『山峨女史家族制限法批判』のタイトルで小冊子に翻訳し発行。同年12月、来日していたアインシュタインを安田徳太郎と訪問し、翻訳していたゲオルグ・ニコライの『戦争の生物学』の序文の執筆を依頼している。 1923年、京都帝国大学理学部講師となる[1]。各地に於いて性教育、産児制限の講演を行う[1]。産児制限運動で知り合った三田村四郎・九津見房子夫妻と共に「大阪産児制限研究会」を設立。山本は彼らを通じて左翼系の社会運動との関わりを強めていった。8月5日、『性教育』刊行。 1924年1月、西尾末広などが設立した「大阪労働学校」の講師に就任[10]。同年3月には「京都労働学校」の校長に就任する。しかし、同年5月、鳥取で産児制限の講演を行った際、その内容を警察官に激怒され、この出来事が新聞に載ってしまう。これが原因で山本は京都帝国大学を追放された。同年6月、大山郁夫らにより設立された「政治研究会」の京都支部設立に参加する。同年に既存の産児制限の理論とは違うアプローチをした「産兒調節評論」(後に「性と社会」と改題。別名Birth control、産児調節評論)を出版する[11]。 1925年、京都学連事件のため12月家宅捜査を受ける[1]。1926年、同志社大学を辞めさせられた[1]。同年に『性と社会』は廃刊[1]。 同年3月、京都地方全国無産党期成同盟に参加する。同年5月、労働農民党(労農党)京滋支部に参加。
経歴
生い立ち
大学講師時代
衆議院議員時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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