山本夏彦
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山本 夏彦
誕生
1915年6月15日
東京市下谷根岸
死没 (2002-10-23) 2002年10月23日(87歳没)
職業随筆家編集者
国籍 日本
代表作『日常茶飯事』
『無想庵物語』
主な受賞歴菊池寛賞(1984年)
読売文学賞(1990年)
市川市民文化賞(1998年)
親族八住利雄(義兄)
白坂依志夫(甥)
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山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2002年10月23日)は、日本随筆家編集者東京市下谷根岸出身。
経歴

東京の下谷根岸に生まれる。父・山本三郎(1879-1928)は、坪内逍遥に傾倒し慶応から早稲田に転学し、詩人・山本露葉として児玉花外、山田枯柳らとともに若手の新体詩人として注目されたが、夏彦が小学6年のときに50歳で亡くなった[1]。なお祖父は高利貸しの山本義上(1848-1909)で、父の代は資産家であった。

父・露葉の友人であった武林無想庵に連れられ15歳で渡仏。3年後に帰国し、24歳のときにフランス童話『年を歴た鰐の話』の翻訳で文壇デビュー。戦後に老舗雑誌となった『室内』を創刊し、コラムニストとしても活動した。

没時まで『週刊新潮』に「夏彦の写真コラム」を連載していた。月刊誌『諸君!』(文藝春秋)でも「笑わぬでもなし」を没する寸前まで350回余り執筆連載した。

長男山本伊吾[2]は新潮社で、編集者として写真週刊誌FOCUS』の編集長などを務めた。義兄(姉の夫)にロシア文学者、脚本家の八住利雄。甥に脚本家白坂依志夫
年譜

1915年(大正4年)6月15日 - 詩人・山本露葉の三男として下谷根岸で生まれる。金貸しだった祖父・山本義上の莫大な遺産により裕福な家庭だった。

1928年昭和3年) - 父死去。

1929年(昭和4年) - 東京府立第五中学校入学。

1930年(昭和5年) - 睡眠薬で自殺未遂し、亡き父の友人であった武林無想庵に連れられフランスに渡った。

1932年(昭和7年) - スイスの冬山で睡眠薬を飲み、再び自殺未遂

1933年(昭和8年) - パリ19区にあった共産党主導の夜間労働大学で学ぶ。フランスから帰国。

1939年(昭和14年) - フランスの文人、レオポール・ショヴォの童話『年を歴た鰐の話』を翻訳、『中央公論』春の増刊号に掲載される。

1941年(昭和16年) - 『年を歴た鰐の話』が出版される(※新版が、没後の2003年文藝春秋より刊行)。

1950年(昭和25年) - 建築関係書籍出版の工作社を設立。

1955年(昭和30年) - インテリア専門誌『木工界』を創刊し編集長兼発行人となる。1961年(昭和36年)に『木工界』から『室内』に誌名を変更。2006年平成18年)3月号で休刊[3]するまで約50年にわたって発行された。

1959年(昭和34年) - 『木工界』に『日常茶飯事』と題してコラムを連載開始。

1962年(昭和37年) - 『日常茶飯事』が出版される。このコラム集によって、山本夏彦は広く知られるようになった(※のち中公文庫で再刊)。

1979年(昭和54年) - 『週刊新潮』に「夏彦の写真コラム」連載開始(初回は「かわいそうな美空ひばり」)

1996年(平成8年)12月2日 - 藤岡信勝西尾幹二らが中心となって「新しい歴史教科書をつくる会」の結成記者会見が開かれる。呼びかけ人は藤岡、西尾、山本および、小林よしのり坂本多加雄高橋史朗深田祐介阿川佐和子林真理子の計9人であった[4][5][6]

2002年(平成14年)10月23日 - 胃癌のため死去。87歳没。死の直前まで連載4本を抱えていた。

受賞

1984年(昭和59年) - 菊池寛賞受賞。

1990年(平成2年) - 『無想庵物語』で読売文学賞受賞。

1998年(平成10年) - 市川市民文化賞。

著作

日常茶飯事 工作社 1962 のち中公文庫、新潮文庫

茶の間の正義 文藝春秋 1967 のち中公文庫(新版刊)、新版・ワック

変痴気論 毎日新聞社 1971 のち中公文庫(新版刊)

毒言独語 実業之日本社 1971 のち中公文庫(新版刊)

笑わぬでもなし 文藝春秋 1976 のち文庫、中公文庫、新版・ワック

編集兼発行人 ダイヤモンド社 1976 のち中公文庫(新版刊)


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