この項目では、アニメーション作家の山本早苗について説明しています。かつての本名が山本早苗である政治家については「高市早苗」をご覧ください。
やまもと さなえ
山本 早苗
別名義戸田 早苗(とだ さなえ)
山本 善次郎(やまもと ぜんじろう)
生年月日 (1898-02-06) 1898年2月6日
没年月日 (1981-02-08) 1981年2月8日(83歳没)
出生地 日本 千葉県
死没地 日本 東京都
職業映画監督、映画プロデューサー、作画監督、撮影監督、実業家
ジャンルアニメーション映画
活動期間1917年 - 1968年
主な作品
『白蛇伝』(企画)
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山本 早苗(やまもと さなえ、1898年2月6日 - 1981年2月8日)は、日本の映画監督、映画プロデューサー、作画監督、撮影監督、アニメーション作家
(英語版)であり、実業家である[1][2][3]。戸田 早苗(とだ さなえ)[1][2][3]、山本 善次郎(やまもと ぜんじろう)とも称する[4]。伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2021年4月)
1898年(明治31年)2月6日、千葉県の農家に生まれる[3]。東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)の呉服屋に丁稚奉公に出されるも、画業への希望を捨てられず新聞配達をしながら川端画学校に学ぶ[3]。
1917年(大正6年)に日活向島撮影所で日本初のアニメーション製作を始めた北山清太郎に師事する[3][5]。1921年(大正10年)に北山清太郎が設立した北山映画製作所に参加、1924年(大正13年)には同社製作の『教育お伽漫画 兎と亀
』を作画・演出する[1]。1925年(大正14年)には、独立して「山本漫画映画製作所」(東京漫画倶楽部)を設立、第1作『教育線画 姨捨山』を製作する[1][3]。1945年(昭和20年)9月10日、山本は連合国軍最高司令官総司令部に赴き、ロバート・キング・ホール・ジュニアに会い、アニメーションのサンプルを見せて製作への援助を申し出た。武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)に設置された仮スタジオに案内し、承諾を得、同年10月、株式会社新日本動画社を設立、山本は社長に就任する[3]。古沢日出夫、政岡憲三、村田安司らがこれに参加する[3][6]。翌11月には村田が主導して経理畑の人間がトップに就任、日本漫画映画と社名を変更、山本は企画部長となる[3]。同社は、政岡監督、山本製作による『桜』を完成するが公開は果たせず、1947年(昭和22年)8月、政岡とともに同社を退社する[3]。
退社とともに、政岡憲三らと日本動画株式会社を設立、新宿区原町の成城中学校・高等学校の空き校舎をスタジオとし、山本は社長に就任する[7]。撮影技師にのちに監督になる藪下泰司、倒産した日本漫画映画から合流した大工原章、古沢日出夫、福井英一、そして木村角山の京都映画社から熊川正雄が参加した[7]。第1作は『すて猫トラちゃん』、東宝教育映画部が配給し、同年9月に公開される[7]。同社の正式な設立は1948年(昭和23年)1月23日である。
アニメーション業界環境は厳しく、1950年(昭和25年)に同社は全スタッフの一時解雇を余儀なくされ、山本はこれを決意、政岡はこれをもって引退した[7]。1952年(昭和27年)8月、同社は、東宝図解映画(前身はゼーオー・スタヂオ漫画部およびピー・シー・エル映画製作所漫画部)を吸収合併し「日動映画株式会社」と商号を変更する[8]。その後、東映が同社を買収、1956年(昭和31年)7月に日動映画株式会社から東映動画株式会社(現在の東映アニメーション)へ商号変更、山本は東映動画の取締役になった[8]。
1964年(昭和39年)、東映動画を退社、山本アニメーション研究所、のちのチルドレンズ・コーナーを設立、東映動画の下請け製作を行った[9]。1966年(昭和41年)には、スタジオ・ゼロと共同で毎日放送から、テレビアニメ『おそ松くん』を受注製作する[9][10]。1967年(昭和42年)3月19日、同作の放映が終了、同月19日には『たぬきさん大当り』が公開されたのを最後に、チルドレンズ・コーナーを引退する[9]。
1981年(昭和56年)2月8日、死去した。満83歳没。
フィルモグラフィ
1920年代
『教育お伽漫画 兎と亀』 : 製作北山映画製作所、配給ナカジマ活動写真部、1924年公開 - 演出・作画(「戸田早苗」名義)[2]
『教育線画 姨捨山』 : 製作東京漫画倶楽部、1925年公開 - 演出・作画(「戸田早苗」名義)[2]
『線畫 つぼ』 : 製作山本漫画製作所、1925年公開 - 作画(「山本早苗」名義)[2]