山本和行
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元NHKアナウンサーの「山本和之」とは別人です。

山本 和行基本情報
国籍 日本
出身地広島県広島市南区
生年月日 (1949-06-30) 1949年6月30日(74歳)
身長
体重174 cm
80 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1971年 ドラフト1位
初出場1972年4月12日
最終出場1988年9月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


広島県立広島商業高等学校

亜細亜大学

阪神タイガース (1972 - 1988)

コーチ歴


阪神タイガース (1988)

広島東洋カープ (1992 - 1995)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

山本 和行(やまもと かずゆき、1949年6月30日 - )は、広島県広島市南区出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者
経歴
プロ入りまで

広島商業高校では1966年夏、2年生の時にエースとして夏の甲子園県予選決勝に進出。伊原春樹のいた北川工を完封し、第48回全国高等学校野球選手権大会に出場。しかし1回戦で桐生高の前野和博(芝工大?東芝)に抑えられ1-3で敗退する。1年上のチームメートに三村敏之遊撃手(後に広島東洋カープ監督)がいた。翌1967年夏も、県予選決勝で広陵高の宇根洋介(近大?電電中国)と投げ合うが惜敗、甲子園出場を逃した。広陵高は甲子園で準優勝。宇根は1年下だが、県内では福山電波工(現近大広島高福山校)の村田長次(兆治)尾道商大田垣耕造シドニー五輪日本代表監督)両投手らが同学年で鎬を削っていた。

進学した亜細亜大学でも2年からエースとなる。東都大学野球リーグでは1971年春季リーグで4年振りに優勝。中大高橋善正が持つ1季9勝のリーグ記録に並び、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選ばれた。同年の第20回全日本大学野球選手権大会では決勝で法大横山晴久に投げ勝ち、亜大を初の日本一に導く。同年の第2回明治神宮野球大会では中沢邦男畑野実らのいた日大に敗れ準優勝。リーグ通算63試合登板、33勝26敗、防御率1.83、351奪三振。
現役時代

広島県出身の山本は広島入団を切望していたが、同年のドラフト1位で阪神タイガースに入団(後に監督となる中村勝広は2位、望月充が3位)。契約金1000万円、年俸180万円[1]。当時の阪神は江夏豊村山実上田次朗権藤正利ら一流投手が揃った投手王国時代で、山本は「カープじゃないのか」と思ったのと同時に「これは大変なところに行くことになった」と不安になったと述懐している。独自に研究していたフォークボールを武器に1年目から先発として起用される。

1974年は32試合に登板、6勝を記録した。

1975年3月21日のオープン戦(対近鉄戦)で先発し好投。一方その対戦相手・鈴木啓示は4回4失点でマウンドを下り、西本幸雄監督から「少しは向こうのピッチャーを見習え!」と叱責された[2]。1975年から主にリリーフとして起用されるようになる。

1976年には6勝3敗18セーブ、防御率2.92という好成績を残した。1976年6月8日巨人戦、2-0でリードしていながら9回裏に疲れの見えた江本孟紀をリリーフ、王貞治との勝負を避けて四球にして満塁のピンチを迎え、末次利光に逆転満塁サヨナラホームランを浴びた[3]。この試合では「なぜ(右打者の末次対策として、ダブルストッパーのもう一人だった右投手の)安仁屋宗八に替えなかったのか?」と吉田義男監督の采配を疑問視する声もあった。同年10月11日の巨人戦では、王貞治にベーブ・ルースの記録を抜く通算715号本塁打を喫している[4]

1977年にはリーグ最多の58試合に登板し9勝5敗9セーブ、初めて規定投球回にも達し防御率3.71(リーグ7位)を記録。同年は新浦寿夫鈴木孝政と並びリーグ最多セーブ投手となる。

1978年から先発投手に転向。

1980年には15勝11敗2セーブを残した。

1981年は7戦連続で打ち込まれ、降板という時期があり記者からの質問には「打たれない方法は投げないことやね」と返答していた。しかしシーズンの最終成績は12勝12敗1セーブ防御率3.30という成績で阪神のAクラス入り(3位)に貢献した[5]。またこの年の6月23日には満塁本塁打を打ち、藤田平(6月19日)、山本、岡田彰布(6月24日)と3試合連続満塁本塁打のプロ野球記録を樹立している(詳細は後節を参照)。

1982年は、監督に就任した安藤統夫の方針で、再びリリーフに転向し、リリーフながら15勝(8敗)をマーク、また26セーブ、40セーブポイント最優秀救援投手のタイトルを獲得する。同年は防御率2.41(自己最高のリーグ3位)も記録した。

1984年には10勝24セーブ、34セーブポイントで再び最優秀救援投手に輝き、セ・リーグを代表する抑え投手として君臨した。この1984年オフにメジャー移籍の話が持ち上がったが、阪神球団からの許可が降りずに断念している[6]

1985年には中西清起とのダブルストッパーで5勝11セーブをあげ、21年ぶりのリーグ優勝の原動力となる。このシーズンには通算100勝と100セーブをともに巨人戦で記録した。しかし、9月4日にナゴヤ球場での中日戦の試合前練習中にアキレス腱を断裂し、シーズン終盤は出場できなかった[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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