山本勘助
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写真家の「山本悍右」とは別人です。

 凡例山本 勘助
山本勘助(松本楓湖作、恵林寺蔵)
時代戦国時代
生誕明応2年(1493年)もしくは明応9年(1500年[1]
死没永禄4年9月10日1561年10月18日
改名山本源助、大林源助、大林勘助、
山本勘助、晴幸、道安、道鬼斎(号)
別名菅介[2]、勘介、勘助
戒名鉄巌道一禅定門
天徳院武山道鬼居士
墓所長野県長野市、長谷寺(愛知県豊川市)他
主君大林家?→ 武田信玄
氏族山本氏、大林氏
父母父:山本貞幸、母:大橋入道の娘・
兄弟吉野貞継、石松、光幸、晴幸、
鶴(桑名城内室)、貞重
子娘:山本十左衛門尉室、山本菅助(2代)(勘蔵、信供)、山本助次郎、下村安笑
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山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代武将

甲陽軍鑑』においては名を勘助、を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助[2]子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。

『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が『甲州法度之次第』を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、これに従うと生年は明応2年(1493年)となる[3]。一方、『甲陽軍鑑』末書下巻下の「山本勘助うハさ。五ヶ条之事」によれば、勘助の生年を明応9年(1500年)としている[3]。「五ヶ条之事」では菅助が本国を出て武者修行を行い、駿河で滞在し今川家に仕官を望み、甲斐へ移り武田家に仕官し、出家し川中島の戦いで戦死する一連の履歴の年齢を記しているが、これには矛盾が存在していることが指摘される[1]。生年には、文亀元年(1501年)説もある。『甲陽軍鑑』によれば、没年は永禄4年(1561年9月10日川中島の戦いで討死したとされる。

近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている[2]
生涯.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに甲陽軍鑑の原文があります。

以下に記述する勘助の生涯は江戸時代前期成立の『甲陽軍鑑』を元にするが、山本勘助の名は(戦後に発見された市河文書を除き)『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見えない。勘助の生涯とされるものは全て『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であると考えられている。各地に残る家伝や伝承も江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助にちなんだ後世の付会である可能性が高く、武蔵坊弁慶の伝承・伝説と同様の英雄物語に類するものとするのが史家のあいだでは通説である(実在を巡る議論参照)。

甲斐国誌の山本勘助の紹介 甲陽軍鑑、北越軍談を引用している。

生誕地山本晴幸生誕地(愛知県豊橋市賀茂町)

『甲陽軍鑑』などには三河国宝飯郡牛窪愛知県豊川市牛久保町)の出とある。

江戸時代後期成立の『甲斐国志[注釈 1]によれば、勘助は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)の吉野貞幸の三男に生まれ、三河国牛窪城牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入っている。大河ドラマ風林火山』(NHK)もこの説を採用している。甲斐国志は、甲陽軍鑑、北越軍談の記述を引用している。

北越軍談では愛知県豊田市寺部(本国三州賀茂郡に帰り、という記述)。

日本中世史研究の第一人者で、静岡大学教育学部名誉教授の小和田哲男によると、信憑性が低いとされるが、『牛窪密談記』に初出の[4]愛知県豊橋市賀茂(三河国八名郡加茂村)。
牢人

※「牢人」は「浪人」と同じ意味。江戸時代以前に主に使われていた。山本勘助の原典史料である『甲陽軍鑑』ではこちらが使われており、本項目でもこれを用いる。

勘助は26歳(または20歳)のときに武者修行の旅に出た。『武功雑記』によれば、剣豪上泉秀綱が弟子の虎伯と牛窪の牧野氏を訪ねたときに、若き勘助と虎伯が立会い、まず虎伯が一本取り、続いて勘助が一本を取った。しかし、勘助を妬む者たちが勘助が負けたと誹謗したため、いたたまれず出奔したという。上泉秀綱が武者修行に出たのは勘助の死後の永禄7年(1564年)以後とされており、この話は剣豪伝説にありがちな創作である。

勘助は10年の間、中国四国九州関東の諸国を遍歴して京流(または行流)兵法を会得して、城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めた。後に勘助が武田信玄に仕えたとき、諸国の情勢として毛利元就大内義隆の将才について語っている(萩藩の『萩藩閥閲録遺漏』の中に子孫を称する百姓・山本源兵衛が藩に提出した『山本勝次郎方御判物写(山本家言伝之覚)』がある。それによると勘助は大内氏に仕えていたが天文10年に妻子を残して出奔したとあるが、その後の話に辻褄が合わない部分もあり裏付けに乏しい)。

天文5年(1536年)、37歳になった勘助は駿河国主今川義元に仕官せんと欲して駿河国に入り、牢人家老庵原忠胤の屋敷に寄宿し、重臣朝比奈信置を通して仕官を願った。だが、今川義元は勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかった。勘助は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかった。今川の家中は小者一人も連れぬ貧しい牢人で、城を持ったこともなく、兵を率いたこともない勘助が兵法を極めたなぞ大言壮語の法螺であると謗った。兵法で2、3度手柄を立てたことがあったが、勘助が当時流行の新当流塚原卜伝が創設)ではなく京流であることをもって認めようとはしなかった。勘助は仕官が叶わず牢人の身のまま9年にわたり駿河に留まり鬱々とした日々を過ごした。
武田家に仕える武田二十四将。下段左から2番目が山本勘助(江戸後期、武田神社蔵)山本勘助の猪退治。勝川春亭画。猪の牙で勘助は片目を失う

勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に「城取り(築城術)」に通じた牢人がいると若き甲斐国国主武田晴信(信玄)に勘助を推挙した[注釈 2]


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