山本功児
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その他の同名の人物については「Wikipedia:索引 やまも#やまもとこ」をご覧ください。

この項目では、元プロ野球選手の山本功児について説明しています。元陸上選手の山本功児については「山本功児 (陸上選手)」をご覧ください。

山本 功児基本情報
国籍 日本
出身地大阪府堺市北区
生年月日 (1951-12-25) 1951年12月25日
没年月日 (2016-04-23) 2016年4月23日(64歳没)
身長
体重186 cm
84 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション一塁手外野手
プロ入り1975年 ドラフト5位
初出場1976年4月6日
最終出場1988年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


三田学園高等学校

法政大学

本田技研鈴鹿

読売ジャイアンツ (1976 - 1983)

ロッテオリオンズ (1984 - 1988)

監督・コーチ歴


ロッテオリオンズ
千葉ロッテマリーンズ (1988 - 2003)

読売ジャイアンツ (2004 - 2005)

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山本 功児(やまもと こうじ、1951年12月25日 - 2016年4月23日)は、大阪府堺市出身の元プロ野球選手一塁手外野手)・監督。左投げ左打ち。長男は元プロ野球選手の山本武白志[1]
経歴
プロ入りまで

実家が当時の南海ホークスの練習場であった中百舌鳥球場と選手寮(秀鷹寮)の近くでパン・菓子屋を営んでおり[2][3]、幼少期は南海選手から可愛がられていたと、皆川睦雄が野球中継解説時に語っている。また、実父は当時の監督であった鶴岡一人と懇意にしており、二軍選手はもちろんのこと、上記の皆川以外にも杉浦忠穴吹義雄野村克也らの主力選手もからもよく声をかけられていて、「功児、合宿所に遊びに来い」と度々誘いを受け、選手寮の食堂で選手たちと食事をともにするだけでなく、帰る前に湯船に浸かっていくこともあったという。その中でも特に可愛がっていたのは穴吹で、堺市の浜寺公園にあった自宅にも、ちょくちょく招いてもらっていた[4]

三田学園では1年生からレギュラーとなる。エース吉岡邦広を擁し、五番打者、一塁手として1967年夏の兵庫大会決勝に進んだが報徳学園に敗れ、準優勝[5]。3年次に1969年春の第41回選抜大会に出場。準々決勝に進んだが堀越高但田裕介阪神)に抑えられ、1-2で惜敗し、ベスト8[6]。同年夏は兵庫大会準々決勝で滝川高に敗れ、ベスト8[5]。1学年後輩に淡口憲治(元巨人近鉄)、2学年後輩に羽田耕一(元近鉄)がいた。1969年度ドラフト会議にて同年のシーズンオフに監督に就任した野村克也から度々誘いを受け、地元の球団の南海ホークスから3位指名(1位は佐藤道郎、2位は門田博光)を受けるも拒否し、法政大学経営学部に進学。理由は法政大学に進学した兄がプロ入りできなかったことで、「法政の野球部はそんなにレベルが低いところなのか」を試す為であった。

東京六大学野球リーグでは横山晴久ら強力投手陣を擁し、2年生までに3度の優勝を経験するがその後は優勝に届かなかった。リーグ通算86試合出場、282打数79安打、打率.280、3本塁打、44打点。ベストナイン(一塁手)2回。1972年1973年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。大学同期に投手前村泰正三塁手佐々木幸治らがいる。

大学卒業後は本田技研鈴鹿に入社。1974年には西濃運輸1975年には新日鉄名古屋の補強選手として都市対抗野球大会に連続出場。1974年の第1回社会人野球日本選手権大会にも出場し、本塁打を放った。同年の社会人野球キューバ遠征に参加、1975年には第2回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出されている。同年のドラフト会議にて読売ジャイアンツから5位指名を受け、入団。
現役時代

1976年から一軍で起用されるが、本来の守備位置である一塁手には王貞治がおり、外野手も兼ねて出場機会の確保を目指す。1977年阪急ブレーブスとの日本シリーズでは第4戦の7回に代打として起用され、山田久志から自身のシリーズ初安打を放つ。1979年は主に右翼手として51試合に先発出場、打率.291の好成績を残した。同年のシーズンオフ、長嶋茂雄監督による「地獄の伊東キャンプ」にも参加する。1980年は7試合に四番打者として起用された。同年オフに王貞治が引退、1981年には中畑清と一塁手の定位置を争う[7]。守備には定評があったが打撃面での不調もありレギュラーは奪えなかった。

同年8月26日の中日ドラゴンズ戦では代打として出場、星野仙一を相手にショートフライに打ち取られると思いきや、中日の遊撃手宇野勝がまさかの失策を犯してしまい、山本もダイヤモンドを一周して同点となる本塁を目指したが本塁で刺殺された[8]。詳細は「宇野ヘディング事件」を参照

1982年4月20日の中日戦では星野からサヨナラヒットを打った。同年は主に左翼手として70試合に先発を果たすが、打率は低迷が続く。

1984年は、三宅宗源との交換トレードでロッテオリオンズへ移籍。同年は開幕から一塁手、五番打者に定着し、初めて規定打席に到達、打率.301(9位)を記録している。1985年も中心打者として活躍、打率.293(14位)の好成績を挙げ、1984年から2年連続でゴールデングラブ賞を受賞。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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