山手公園
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山手公園
Yamate Park
山手公園、洋風あずまや付近
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}横浜市の地図を表示神奈川県の地図を表示日本の地図を表示
分類都市公園(近隣公園)
所在地 日本神奈川県横浜市中区山手町230
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度26分4.5秒 東経139度38分56.4秒 / 北緯35.434583度 東経139.649000度 / 35.434583; 139.649000座標: 北緯35度26分4.5秒 東経139度38分56.4秒 / 北緯35.434583度 東経139.649000度 / 35.434583; 139.649000
面積27,753m2
開園1870年(明治3年)5月
運営者横浜市(指定管理者:公益財団法人横浜市緑の協会
駐車場20台(有料)
事務所みどり環境局 南部公園緑地事務所 都心部公園担当
事務所所在地横浜市中区本町6-50-10(横浜市役所
公式サイト山手公園 公式サイト
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山手68番館「日本庭球発祥之地」記念碑

山手公園(やまてこうえん)は、横浜市中区の公園。日本初の洋風公共庭園(洋風公園は東遊園地が最初)であり、日本におけるテニス発祥の地としても知られる。
概要

交通 - JR
根岸線石川町駅から徒歩10分、根岸線山手駅みなとみらい線元町・中華街駅から徒歩15分、路線バス山手町・麦田町下車

園内の施設等

テニスコート - 横浜インターナショナルテニスクラブ、市営テニスコート各6面。

テニス発祥記念館 - 最古のテニス道具など、テニスに関する資料が展示されている。

山手68番館 - 現在は市営テニスコートのクラブハウスとして使われている。

洋風あずまや - 日本初の吹奏楽団である薩摩藩軍楽隊が演奏会を行った。

植栽 - や、英国人ブルックにより持ち込まれたヒマラヤ杉など。


歴史

山手公園建設のきっかけは、1862年文久2年)に発生した生麦事件である[1]リチャードソンをはじめとする4人のイギリス人は、多摩川へピクニックに行こうとしていた際に、横浜の生麦村で薩摩藩島津久光の行列と出くわし、行列の前を乗馬のまま横切ろうとしたとき、これに激昂した薩摩藩士に一行は殺りつけられ、リチャードソンは絶命した[1]

この事件は横浜居留地の外国人たちを震撼させ、安心してピクニックや馬の遠乗りが楽しめる場所が欲しいと、イギリスアメリカ合衆国フランスの3か国の公使が、山手に遊歩道と公園を設置するよう江戸幕府に要求した[2]。当時の日本では散策のための道をつくるなどの発想はなく、「公園」という概念など持ち合わせてもいなかった[2]。各国の領事たちは、自分たちの生活スタイルを貫き通そうと、何度も幕府に公園を設置することを要求し、その結果として外国公使団と幕府との間に覚書である「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が交わされ、幕府から遊歩道とともに公園建設を許可されるに至ったものである[2][注釈 1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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