山形県立新庄北高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度45分53.6秒 東経140度17分6.1秒 / 北緯38.764889度 東経140.285028度 / 38.764889; 140.285028
山形県立新庄北高等学校(やまがたけんりつしんじょうきたこうとうがっこう, Yamagata Prefectural Shinjo Kita High School)は、山形県新庄市飛田にある県立の高等学校。略称は「新北」(しんきた)、「北高」(きたこう)。
概要[ソースを編集]
歴史
1900年(明治33年)に山形県立山形中学校(旧制中学校)の分校として開校。1902年(明治35年)に「山形県立新荘中学校」として独立し、1948年(昭和23年)の学制改革により、新制高等学校となった。当初は男子校であったが、1950年(昭和25年)の高校再編で高等女学校を前身とする高等学校と統合され、「山形県立新庄高等学校」となり、男女共学を開始した。1952年(昭和27年)には南北の2校に分割され、現校名の「山形県立新庄北高等学校」となった。2010年(平成22年)に創立110周年を迎えた。
設置課程・学科
全日制課程 普通科(1学年あたり5学級200名)定時制課程 普通科 - 山形県立霞城学園高等学校 通信制課程との併修により、3年で卒業することが可能。
分校
最上校 - 全日制課程 普通科
所在地 - 山形県最上郡最上町大字向町字水上869-2(北緯38度45分45.1秒 東経140度31分43.7秒 / 北緯38.762528度 東経140.528806度 / 38.762528; 140.528806 (最上校))
校是
「文武両道・質実剛健」
校訓
「誠心誠意・穏健中正・質素簡約・勤勉力行・敏捷快活」
校章
旧制中学校卒業生によってデザインされたもので、雪の結晶をもとにしている。1948年(昭和23年)の新制高等学校発足時に制定された。
校歌
1954年(昭和29年)に制定。作詞は山本林、作曲は清水脩による。歌詞は3番まであり、校名は歌詞中に登場しない。旧校歌(旧制中学校校歌)- 作詞は庄司重之、作曲は菅原熊吉による。同窓会総会等式典の際、現校歌と共に歌われる。
祝典歌・応援歌
「生徒会歌」・「応援団歌」・「我が精鋭」・「門出の歌」・「新高音頭」(壮行会等の選手退場の際に歌われる)
通学区
新庄市など最上郡が中心。尾花沢市などからの通学者もいる。
授業
55分で行われる。
沿革[ソースを編集]
旧制中学校時代
1900年(明治33年)
3月1日 - 「山形県立山形中学校新庄分校」として設置。
4月13日 - 温知尋常小学校内において開校式を挙行。この日を創立記念日とする。
1901年(明治34年)7月1日 - 校舎が完成し、移転を完了。
1902年(明治35年)4月1日 - 山形県立山形中学校から分離し、「山形県立新荘中学校」として独立。
入学資格を尋常小学校を卒業した12歳以上の男子、修業年限を5年(現在の中1から高2に相当)とする。
1920年(大正9年)11月 - 記念館(柔道場)が校友会から寄付される。
1921年(大正10年)6月10日 - 火災により校舎を焼失。類焼をまぬがれた記念館と寄宿舎を仮校舎として授業を再開。
1922年(大正11年)9月10日 - 新校舎(復旧校舎)が完成し移転を完了。
1929年(昭和4年)9月13日 - 講堂が完成。
1931年(昭和6年)12月31日 - 寄宿舎を廃止。
1932年(昭和7年)1月 - 寄宿舎の一部を工作作業場に改造。
1936年(昭和11年)7月18日 - 剣道場が完成。
1940年(昭和15年)4月10日 - 増員のため、校舎を増築。
1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限を4年とする。
1944年(昭和19年)- 勤労動員が開始。
1945年(昭和20年)
3月 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限4年施行が前倒しになったため、4年生と5年生の合同卒業式を挙行。
本来、修業年限4年の施行は中等教育令が施行された1943年(昭和18年)に入学した生徒が4年を修了する1947年(昭和22年)に施行されるはずであった。しかし戦況の悪化により、中等教育令施行前に入学した1941年(昭和16年)および1947年(昭和17年)入学生にも修業年限4年が適用された。この時は1940年(昭和15年)に入学した5年生と1941年(昭和16年)に入学した4年生の合同卒業式が行われた。
4月 - 学校での授業を停止。ただし勤労動員は継続される。
8月 - 終戦。
9月 - 授業を再開。
1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年となる(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。