山形城
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この項目では、城跡について説明しています。城址公園・都市公園については「霞城公園」をご覧ください。

logo山形城
山形県
二の丸東大手門(木造復元)
別名霞城、霞ヶ城、吉字城
城郭構造輪郭式平城
天守構造御三階櫓
築城主斯波兼頼
築城年南朝:正平11年/北朝:延文元年(1356年
主な改修者最上義光鳥居忠政
主な城主最上氏鳥居氏堀田氏
秋元氏
廃城年明治4年(1871年
遺構石垣、堀、移築門、移築御殿
指定文化財国の史跡
再建造物二の丸東大手門、大手橋、本丸一文字門
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度15分20秒 東経140度19分41秒 / 北緯38.25556度 東経140.32806度 / 38.25556; 140.32806
地図 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}山形城山形市街の地図を表示山形城山形県の地図を表示山形城出羽国の地図を表示
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山形城(やまがたじょう)は、山形県山形市霞城町にあった日本の城。別名は霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。また、吉字城とも呼ばれた[注釈 1]。国の史跡に指定され、日本100名城に選定されている[1]山形城 古絵図外堀の風景
概要

おおよその城郭構造の基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。現在は、武家屋敷群のあった三の丸が市街地化しているが、本丸二の丸跡が霞城公園として残されている。霞城公園はかつて運動公園として整備されたため公園内には運動施設が幾つか残っている。現在、整備方針が変わり史跡公園とすることを目標にしているので残っている施設も将来的に移転される予定である。

建造物では、大手南門が、市内の万松寺山門として移築され現存する。また、市内八日町宝光院[2]の本堂は、御殿の建物を移築したものである(県指定文化財)。

山形市は、2033年をめどに本丸全体の発掘調査を完了させるとともに、本丸枡形門の木造復元を完了することを計画している[3]令和5年(2023年)現在、本丸御殿、本丸一文字門櫓等の木造復元計画がある。本丸は一文字門及び本丸御殿等の古写真・図面などの史料が発見されていないことにより、大型建築物の木造復元のめどは立っていないが、本丸大手門の高麗門及び土塀は時代考証に基づき木造復元が行われている。平成25年(2013年)の発掘調査は本丸西側濠の遺構が中心となり、本丸濠南西部に関しては本丸土塁構築が出来る状態となっている。同年の発掘調査では三の丸跡から奈良・平安時代のものである竪穴建物跡6棟が発見され、城下町は古代から存在した集落を基盤として形成された[4]
歴史・沿革
前史

山形城が立地するのは山形盆地南側、馬見ヶ崎川扇状地の中央やや北寄りに位置する。羽州街道笹谷峠の合流点に当たり、鎌倉時代までは最上郡の中心として栄えた。,
最上氏による築城

南朝:正平11年/北朝:延文元年(1356年)に斯波兼頼羽州探題として山形に入部し、南朝:正平12年/北朝:延文2年(1357年)初期の山形城が築城される。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏本宗家の居城となった[5]最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し三の丸を構築、家臣団の屋敷が置かれた。さらに城下町を整備し、慶長出羽合戦で得た出羽57万石の本城となる。
江戸時代

元和8年(1622年)に最上氏が改易された後、鳥居忠政により改修がなされた。鳥居氏以後もたびたび藩主家の変更があったが、格式・規模が次第に低下したため、江戸中期以降は城の維持が困難になった。幕末には御殿は二の丸に置かれ、本丸は更地で、三の丸の西半分は田畑になっていた。
歴代城主霞城公園北門にある史蹟山形城址碑

山形藩最上氏も参照。

最上氏 (1356 - 1622)

(近世以前は省略) 最上義光 最上家親 最上義俊


鳥居氏 (1622 - 1636)

鳥居忠政 鳥居忠恒


保科氏 (1636 - 1643)

保科正之


結城松平家 (1644 - 1648)

松平直基


奥平松平家 (1648 - 1668)

松平忠弘


奥平氏 (1668 - 1685)

奥平昌能


堀田氏 (1685 - 1686)

堀田正仲


結城松平家(1686 - 1692)

松平直矩


奥平松平家 (1692 - 1700)

松平忠弘 松平忠雅


堀田氏 (1700 - 1746)

堀田正虎 堀田正春 堀田正亮


大給松平家 (1746 - 1764)

松平乗佑


天領 (1764 - 1767)

秋元氏 (1767 - 1845)

秋元凉朝 秋元永朝 秋元久朝 秋元志朝


水野氏 (1845 - 1870)

水野忠精 水野忠弘


近代

明治3年(1870年)に山形藩が転封となったとき、長く使われずにいた城郭は大破し、外壁・矢倉も風雪に耐えかねる状態であった[6]

城が売りに出されると、山形市が購入し、陸軍の駐屯地を誘致した。歩兵三十二連隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸は埋め立てられた。三の丸の堀も埋め立てられ耕作地として利用された。

日露戦争凱旋を記念して歩兵三十二連隊の帰還将兵が、明治39年に周囲にソメイヨシノを植林。以降桜の名所となった。
現代

戦後、二の丸の内側は霞城公園になり、二の丸の外側は市街地化が進み、三の丸の濠も埋め立てられた。

昭和61年(1986年) 国の史跡に指定され[7]、江戸末期の資料に基づいて、東大手門や本丸の復元が行われる。

平成3年(1991年) 二の丸東大手門が修復及び復元される。この門の規模は江戸城の城門に匹敵する。

平成18年(2006年) 本丸の正門に当たる一文字門に架かる大手橋が復元される。


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