山川菊栄
1920年夏(29歳)
誕生森田菊栄
(1890-11-03) 1890年11月3日
日本 東京府東京市麹町区四番町(現:千代田区九段北)
死没 (1980-11-02) 1980年11月2日(89歳没)
日本 東京都
職業婦人運動家、評論家、作家
国籍 日本
代表作アウグスト・ベーベル『婦人論《婦人と社会主義》』の初完訳
配偶者山川均(1916年)
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山川 菊栄(やまかわ きくえ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:山川 菊榮、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1980年〈昭和55年〉11月2日)は、日本の婦人問題評論家・研究家である。戦前、戦後を通じて女性運動の理論的指導者として活動し、労働省の初代婦人少年局長をつとめた[1]。 東京府東京市麹町区四番町(現:千代田区九段北)生まれ[2]。旧姓は森田、後に青山姓となる。夫は山川均。 1918年、論文「母性保護と経済的独立」を「婦人公論」に発表し、論壇での地位を確立した[1]。雑誌「社会主義研究」「前衛」などを創刊した[1]。 日本の婦人運動に初めて批評的、科学的視点を持ち込んだ。多くの評論集は、明晰な分析と鋭い批評眼を示し、日本における女性解放運動の思想的原点と評される[3]。戦後は民主婦人協会を結成、その後婦人少年局長に就任した[1]。 戦前から柳田國男の薫陶を受け、母や故老からの聞き書きや祖父の日誌をもとに、『武家の女性』『幕末の水戸藩』などの社会史を残した。 父は松江藩士の森田龍之助、母は水戸藩士で弘道館教授頭取代理・彰考館権総裁を務めた儒学者・史学者の青山延寿の娘・千世で、祖父延寿の死去に伴い、青山家の戸主となり、1906年より青山姓を名乗る[4]。弘道館の初代教授頭取を務めた儒学者・青山延于は母方の曾祖父にあたる。大叔父(大叔母の夫)に水戸藩士吉成勇太郎がいる[5]。 東京府立第二高等女学校卒業。 1912年(明治45年)、女子英学塾(現:津田塾大学)卒業。 1915年(大正4年)、堺利彦・幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会を通して社会主義を学ぶ。 1915年?1916年『青鞜』誌上において伊藤野枝との間に「廃娼論争」を交わし、野枝の上中流階級の女性たちによる慈善的・恩恵活動を欺瞞的とする批判に賛意を表する一方、公娼制度容認を徹底的に批判した[6]。 1918年(大正7年)ころから始まった母性保護論争に参加、社会主義の立場から平塚らいてう・与謝野晶子らの運動を批判[7]。
人物
経歴左から山川菊栄、伊藤野枝、堺真柄