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をお願いします。(2020年5月)山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月15日 - 1962年(昭和37年)3月2日[1])は、日本の海軍・外務官僚、政治家、国際法学者。法学博士、貴族院議員、法制局長官。 長崎県出身。山川景範の長男として生まれる。長崎中学、第五高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)3月、海軍省に入り参事官に就任。その後、兼高等捕獲審検所事務官、兼鉄道院理事、海軍教官兼海軍省参事官、講和会議全権委員随員などを歴任。1919年(大正8年)4月、法学博士号を取得。 1920年(大正9年)4月、外務省に移り臨時平和条約事務局第1部長に就任し、さらに条約局長となる。1925年(大正14年)8月、加藤高明内閣の法制局長官となり、次の第1次若槻内閣でも留任し1927年4月まで在任。1926年(大正15年)12月7日、貴族院勅選議員に任命され[2]研究会に属し1946年(昭和21年)7月5日まで在任した[1][3][4]。 1929年(昭和4年)11月、海軍会議全権委員随員となり、その他、外務省外交顧問、国家総動員機関設置準備委員会委員長、臨時法制審議会委員などを歴任。戦後、1946年9月から1950年(昭和25年)10月まで公職追放となった。
経歴
栄典
1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章、明治三十七八年従軍記章[5]
1910年(明治43年)2月16日 - 勲三等瑞宝章[6]
1920年(大正9年)9月7日 - 旭日重光章[7]
外国勲章佩用允許
1927年(昭和2年)2月1日 - ポーランド・オドロゼニアポルスキー勲章グランクロア[8]
著書
『軍縮の為に新国防会議を興せ』国際聯盟協会、1929年。
『倫敦海軍軍縮会議の成果』国際聯盟協会、1931年。
『日支時局と国際聯盟』国際聯盟協会、1932年。
親族
妻 山川ミサ(曽禰達蔵の長女)
義兄(姉の夫)稲垣雄太カ(稲垣満次郎の兄)[9]
脚注[脚注の使い方]^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』174頁。
^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、36頁。
^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、56頁。
^ 『官報』第5847号、昭和21年7月12日。