山川彌千枝
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やまかわ やちえ
山川 彌千枝

生誕1918年1月8日[1][2]
日本 東京府東京市小石川区大塚町69番地(現・東京都文京区大塚)[3]
死没 (1933-03-31) 1933年3月31日(15歳没)[4][5]
日本 東京府東京市中野区桃園町41番地(現・東京都中野区中野[3]
死因病死結核[4]
墓地護国寺[6]
国籍 日本
教育成城小学校卒業
明星学園女学部(在学中に死去)
親父:山川幸雄
母:山川柳子
家族長姉・京子、長兄・幸世、次姉・百合子、次兄・駿雄、三姉・美耶子、三兄・健雄、四姉・春子、四兄・益男[7][注 1]
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山川 彌千枝[1]

山川 弥千枝[2]

山川 彌千枝(やまかわ やちえ、1918年大正7年〉1月8日 - 1933年昭和8年〉3月31日)は、日本の女学生。結核によって15歳で死去してのち、作文童話日記などの遺稿が女流同人誌『火の鳥』で特集されて大きな反響を呼び、川端康成をはじめ、文壇の著名人らからも絶賛された[8][4]

この遺稿集は、1935年(昭和10年)に単行本『薔薇は生きてる』として刊行された。以後も様々な出版社から再版され、五十数版を重ねるベストセラーともなっている[9][10]
生涯
生い立ち

1918年大正7年)1月8日、東京府東京市小石川区大塚町69番地(現・東京都文京区大塚)に生まれる[3][1]。母は歌人の山川柳子(1883年明治16年〉2月13日 - 1976年昭和51年〉12月14日[11])、父はドイツで法律学を学び、のちに旧制第三高等学校ドイツ語教授を務めた山川幸雄[12]。9人きょうだい(四男五女)の末子である[1][注 1]

山川家は代々土佐藩典医を務めた家柄で、彌千枝の父方の祖父に当たる山川幸喜は、山内容堂の侍医、明治天皇の侍医を務めた人物で、彌千枝の出生時は開業医となっていた[2]。稲垣(1987)は、「……明治・大正期の知的・経済的な水準から考えると、よほど恵まれた環境に生い立ったといえよう。のみならず、両親のかなり意識的な教育理念や情念に影響されたように思われる」とし[13]、彌千枝の兄の幸世が新劇の演出家、駿雄が船乗り、健雄が造園家、益男が写真家となるなど、「……戦前の時代にそろって平凡な勤め人の道を選ばず、それぞれクリエイティブな、個性ある芸術家、または南米航路の乗組員といった生き方をしたのは、瞠目されてよいであろう。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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