この項目では、経済学者について記述しています。考古学者の同名の人物については「山川均 (考古学者)」をご覧ください。
山川均マルクス経済学(労農派)
生誕1880年12月20日
岡山県窪屋郡倉敷村
死没 (1958-03-23) 1958年3月23日(77歳没)
影響を
受けた人物滝本誠一
影響を
与えた人物日本社会党ブレーンの経済学者
実績社会党左派の理論的支柱となった
テンプレートを表示
山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、在野の経済学者で、社会主義者・社会運動家・思想家・評論家。労農派マルクス主義の指導的理論家であった。 岡山県窪屋郡倉敷村字城ノ内[注釈 1]に生まれる[2]。小学校時代の友人に大原孫三郎がいた[3]。同志社尋常中学部に学び、柏木義円らから影響を受ける。在学中に教育勅語や教会のキリスト教に対して反感と不信を抱き、同志社教師森田久萬人としばしば論争した[4]。 同志社を中退して上京。1900年(明治33年)、守田有秋らの友人と語らって発行していた雑誌『青年の福音』に掲載した皇太子の結婚事情について書いた論説「人生の大惨劇」[5]が不敬罪に問われ、重禁固刑を受ける。これは、不敬罪が適用された最初である。出獄後、いったんは倉敷に戻るが、ふたたび上京。 1906年(明治39年)に堺利彦らの日本社会党に入党、日刊『平民新聞』にも参加し、社会主義運動に加わった。1908年(明治41年)には赤旗事件で入獄し、獄中で「大逆事件(幸徳事件)」の報を聞く。出獄後、一時故郷で薬局を開業するも、再三上京し堺の売文社[6]に入社。社会主義冬の時代を評論活動で糊口を凌ぐ。 1916年(大正5年)、日本の婦人問題評論家・研究家である山川菊栄と結婚する。 1917年にロシア革命が起き、世界革命を目指すロシア共産党(ボリシェヴィキ)は1919年にコミンテルンを設立、各国に支部を作っていく。同年に山川は、山崎今朝弥より『社会主義研究』を引き継ぐ。
生涯
翌1922年(大正11年)1月、学術研究誌の体裁を採っていた『社会主義研究』が新聞紙法の規定により時事評論を掲載することが出来なかったため、当局に保証金を納入し田所輝明
・上田茂樹・西雅雄らとともに時事評論誌として『前衛』を創刊した。同年7月15日には日本共産党(第一次共産党)が創立されると(治安警察法違反のため非合法)と、総務幹事となる。日本共産党は、同年11月のコミンテルン第4回大会[7]に代表を派遣して、コミンテルン日本支部として正式に承認される。