山崎隆造
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この項目では、プロ野球選手について説明しています。商工省通商局長を歴任した官僚については「山崎隆造 (商工官僚)」をご覧ください。

山崎 隆造基本情報
国籍 日本
出身地広島県広島市中区
生年月日 (1958-04-15) 1958年4月15日(66歳)
身長
体重178 cm
82 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション外野手三塁手二塁手
プロ入り1976年 ドラフト1位
初出場1978年8月1日
最終出場1993年10月9日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


崇徳高等学校

広島東洋カープ (1977 - 1993)

監督・コーチ歴


広島東洋カープ (1994 - 2011)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

山崎 隆造(やまさき りゅうぞう、1958年4月15日[1] - )は、広島県広島市中区小町出身[2]の元プロ野球選手外野手内野手、右投両打)・コーチ二軍監督野球解説者野球評論家。2023年秋より母校・崇徳高等学校硬式野球部の総監督。

2003年から2011年までの登録名は「山崎 立翔」(読み同じ)。愛称は「リュー」。
経歴

崇徳高校では1976年、3年の時に1番打者・遊撃手として春の選抜に出場。決勝で小山高を降し優勝を果たす。夏の甲子園では3回戦で長崎海星高に敗退。黒田真二小川達明や後の新日鉄君津 - 早稲田大学野球部監督の應武篤良は同期でチームメイトだった。超高校級の遊撃手と騒がれていた。

同年、ドラフト1位で広島東洋カープに入団。

1978年後半から当時監督だった古葉竹識の勧めにより、高橋慶彦に次いでスイッチヒッターへ転向した。しかし高橋がいたため遊撃手には定着出来ず、主に二塁手として起用された。

1980年には44試合に先発出場を果たす。

1981年3月8日、熊本・藤崎台球場でのオープン戦(対日本ハムファイターズ)で、村井英司の打球を追ってコンクリートフェンスに激突し、右膝を骨折し全治2か月の重傷を負う[3][注 1]。この時の衝撃音はベンチ裏まで聞こえたほどで、膝蓋骨はたいてい二つに割れるものだが、山崎の場合は粉々になっていたという。手術は「粉々になった骨を掻き集めて、ワイヤーで皿状に括る」という前例のないケースで行われ、一転して選手生命の危機を迎えた。

1982年には二塁手、外野手を兼ねて86試合に出場し復活。

1983年には開幕戦から山本浩二左翼手にコンバート)に代わって中堅手を任され、レギュラー定着を果たした。高橋とともにチャンスメーカーとして起用され、6月上旬から約1ヶ月の欠場を経て復帰後は主に右翼手を務めるようになる。同年は打率.305(リーグ9位)に達し、翌1984年は打率.319(7位)、1985年は打率.328(4位)と3年連続で3割を記録。ベストナイン3度、外野手としてゴールデングラブ賞を4度受賞、1984年には26試合連続安打を記録するなど、走攻守三拍子揃った「赤ヘル野球」の体現者として活躍した。打撃タイトルは無かったものの、右膝骨折という致命的な大怪我をしながら、その後203個の盗塁を重ね、1984年からは6年連続全試合出場を果たしており、1983年10月16日から1990年4月28日まで803試合連続出場している。

1990年以降は外野に加えて三塁手としての出場が増えた。1991年には山ア健の入団により、スコアボード等の表記が「山崎隆」となった。

1993年限りで現役を引退。同年10月9日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)で引退試合が行われた[5]。自身は2番・右翼手で先発出場し、第4打席には郭李建夫から適時二塁打を記録[5]。最終打席は田村勤と対戦し、空振り三振に終わった[5]。引退後はコーチ、二軍監督を経て2001年から一軍守備走塁コーチ(一塁・三塁ベースコーチ)を務めた。

2003年に登録名を「隆造」から「立翔」に変更。

2006年から再び二軍監督に就任。

2011年まで務め同年限りで辞任した[6]

2012年からは中国放送(RCC)の野球解説者中国新聞野球評論家を務める傍ら、広島東洋カープジュニアチームの監督を務めており、解説者・監督としての活動では本名の「隆造」名義に戻している。また同年より、崇徳高校硬式野球部OB会副会長に就任している(会長は應武)。

ちなみに、ロックバンドくるり」の岸田繁は山崎の現役時代のプレーを見て以来ファンとなり、現在も広島の大ファンで、2006年6月4日に広島市民球場で始球式を務めている。

2023年9月、病没した應武の後任として崇徳高校硬式野球部・総監督に就任することが明らかになった(監督は藤本誠)。同月15日に正式に就任。非常勤のため引き続き解説者・評論家活動を行っている。
詳細情報
年度別打撃成績

















































O
P
S

1978広島1000000000000000000----------------
19792458538141011858100401111.264.328.340.667
1980751891593740520496176711507272.252.343.308.651
19828621818326441225514149812006292.240.335.301.635


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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