山崎闇斎
[Wikipedia|▼Menu]

山崎闇斎
人物情報
生誕元和4年12月9日(1619年1月24日)
死没天和2年9月16日(1682年10月16日)
両親山崎浄因(父)
学問
時代江戸時代前期
学派土佐南学
崎門学派
研究分野儒学
神道学
特筆すべき概念垂加神道
影響を
受けた人物湘南宗化
谷時中
吉川惟足
出口延佳
影響を
与えた人物佐藤直方
浅見絅斎
三宅尚斎
植田艮背
遊佐木斎
谷秦山
正親町公通
出雲路信直
土御門泰福
渋川春海ほか
テンプレートを表示

山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日1619年1月24日) - 天和2年9月16日1682年10月16日))は、江戸時代前期の儒学者・神道家思想家は嘉、は敬義、通称は嘉右衛門。闇斎は。「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定めた[注 1]

朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者として、また、神道の一派である垂加神道の創始者としても知られる。
概要

朱子学者としては南学派に属する。闇斎によって論じられた朱子学を「崎門学」または「闇斎学」という。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。とりわけ、湯武放伐を否定して、暴君紂王に対してでも忠義を貫いた周文王のような態度を肯定したことに特徴がある[1][2][3]

劉邦の民であったし李淵の臣であったのだから、彼らが天下を取ったのは反逆である。それはでもでも他の王朝でも同じことで、創業の英主といわれていても皆道義に反しており、中国歴代の創業の君主で道義にかなっているのは後漢光武帝ただ一人である」と述べて易姓革命を否定した[4]

またあるとき弟子たちに向かって「今、支那から孔子孟子を大将として日本に攻めてきたらお前たちはどうするか」と問い、返答に窮した弟子たちに「そういう時は当然孔子や孟子と戦って、あるいは斬り、あるいは生け捕りにするのだ。それが孔子や孟子の教えだ」と説いた[5]

闇斎は朱子学だけでなく神道についても論じた。吉川惟足吉川神道を発展させて「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。(→垂加神道

以上のような闇斎の思想は、水戸学国学などとともに、幕末尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた[6]

門人には、佐藤直方浅見絅斎三宅尚斎・植田艮背・遊佐木斎谷秦山正親町公通出雲路信直土御門泰福・安井算哲(渋川春海)らがおり、闇齋学の系統を「崎門学派」という。ただし、最終的に思想的衝突を生じて破門・絶縁した弟子も多く、政治の要請に対して主張を変えがちと揶揄された「林家」と対比する形で「林家の阿世、崎門の絶交」と言われた。
生涯
略歴

元和4年(1619年)、京都にて生まれる。父・山崎浄因は当時浪人であり、鍼医を営んでいた[7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef