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本名山ア 弘也
ニックネームザキヤマ
生年月日 (1976-01-14) 1976年1月14日(48歳)
出身地埼玉県春日部市
血液型B型
身長168 cm
言語日本語
方言標準語・埼玉弁
最終学歴埼玉県立春日部工業高等学校
出身スクールJCA3期
コンビ名アンタッチャブル
相方柴田英嗣
芸風コント、漫才(ボケ)
事務所プロダクション人力舎
活動時期1995年 -
同期豊本明長(東京03)
徳井義実(チュートリアル)
次長課長
野性爆弾
ブラックマヨネーズ など
配偶者既婚
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山崎 弘也(やまざき ひろなり、1976年〈昭和51年〉1月14日 - )は、日本のお笑いタレント。お笑いコンビ・アンタッチャブルのボケ担当。相方は柴田英嗣。
埼玉県春日部市出身。プロダクション人力舎所属。人力舎のタレント養成所・スクールJCAの第3期生。本名は山ア弘也(読みは同じ)。愛称は「ザキヤマ」。身長168 cm、血液型B型。既婚。 春日部市立牛島小学校、春日部市立東中学校、埼玉県立春日部工業高等学校卒業。 当初は俳優志望であり、武田鉄矢に憧れていた。俳優事務所に履歴書を送ったが、返信用切手を入れ忘れたために即不採用となった。その後は芸人を志し、雑誌でスクールJCAの広告を見つけて応募し、合格。芸人ではダウンタウン(特に松本人志)に憧れていた[1]。
経歴
1994年、プロダクション人力舎のタレント養成所スクールJCAに入学。同期生の柴田英嗣とお笑いコンビ「アンタッチャブル」を結成。
2003年、『爆笑オンエアバトル』(NHK)第6回チャンピオン大会で優勝。
2004年、『M-1グランプリ2004』(テレビ朝日)で優勝を果たす。その後のコンビ活動の詳細は「アンタッチャブル」を参照。
2008年、初の冠番組『有田&山崎のおしゃべり太郎』(テレビ東京)が不定期に放送。
2009年、『アメトーーク!』(テレビ朝日)で「後輩・山崎に憧れている芸人」回が放送され、それを機に本格的にブレイクする[2]。
2010年
1月末より相方・柴田が芸能活動を1年間休業。柴田の復帰(2011年1月)後もアンタッチャブルはコンビ活動が一旦休止となる。
7月、地上波初の単独冠番組『流行りモノ乗っかりバラエティ ザキヤマが来るーッ!!』(テレビ朝日)が放送[3]。
10月、『アンタッチャブル山崎弘也の休日inリビア』(フジテレビ)が放送[4]。同番組ではカダフィ大佐独裁体制下のリビアを取材。2011年3月にはリビア内戦が勃発しカダフィ体制が崩壊したため貴重な記録となった[注 1]。
2019年
10月、出身地である埼玉県春日部市の「かすかべ親善大使」に就任[5]。
11月、『全力!脱力タイムズ』(フジテレビ)で約10年ぶりに相方・柴田と共演し、漫才を披露した。以降、コンビ活動を再開[6]。
芸風
底抜けに明るく「テキトー」なキャラクターで、小ボケを自由奔放に繰り出し周囲にツッコませ、自分を中心とした笑いの流れを臨機応変に作り出す。「お笑い界の『ウワバミ』」[7]「(山崎がいると)山崎を活かすためのワントップ”山崎シフト”が自然と組まれる」と評されたことがある。本人は自身の根本にあるのは「いかに怒られずに楽しくやれるか」であり[2]、テレビでも舞台でも「目の前のお客さんを全力で笑わせる」というスタンスだと語っている[8]。
放送作家のオークラは、若手時代の山崎がくりぃむしちゅー・有田やX-GUN・さがねら先輩芸人によるボケのむちゃぶりに鍛え上げられたことが現在の芸風の覚醒に繋がったと述べている[9]。
登場時のギャグ「ザキヤマが、○○(場所名等)に、来るー!」は、山本高広による織田裕二のモノマネ「キター!」のセリフと動作を真逆にアレンジしたもの[注 2]。
白いシャツに白いネクタイ、黒のスラックスという衣装が定番化している。これは結婚式の帰りをイメージしている。若手時代にくりぃむしちゅーの有田哲平に相談して決めた。本人は「あまりにもお金がなさ過ぎて同じものを着たかった、というのが大きい」と述べている[10]。
エピソード