山崎一夫_(プロレスラー)
[Wikipedia|▼Menu]

山崎 一夫
2023.07.07撮影
プロフィール
リングネーム山崎 一夫
本名山崎 一夫
ニックネームキックの狙撃手
カミソリシューター
一匹狼
闘う青年将校
身長184cm
体重105kg
誕生日 (1962-08-15) 1962年8月15日(61歳)
出身地東京都港区
スポーツ歴レスリング
柔道
バレーボール
トレーナー山本小鉄
佐山聡
シーザー武志
デビュー1982年5月6日
引退2000年1月4日
テンプレートを表示

山崎一夫
YouTube
チャンネル

山崎一夫【公式】やまちゃんねる

活動期間2023年 -
ジャンルエンターテイメント
登録者数1140人
総再生回数20,470 回
YouTube Creator Awards



チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-06-17-00002023年6月17日時点。
テンプレートを表示

山崎 一夫(やまざき かずお、1962年8月15日 - )は、整体師鍼灸師タレント、元男性プロレスラー血液型B型。YouTuber東京都港区出身。愛称は山ちゃん。ワールドプロレスリングの解説を務めていた。2023.07.07 SUGAMOプロレス闘道館 山崎一夫選手
来歴
デビュー前

東京都港区麻布十番生まれ。しばしば、山崎は「『いいところに住んでいたんだね』と言われるが、チンチン電車が走っているぐらいで何もなかった。唯一、これっていうのは東京タワーが近くに見えるぐらい」と生育環境を語っている。父親はパイプ加工企業に勤めていた会社員であった。5歳の時、世田谷区九品仏に引っ越している。中学時代に友人にプロレスラーになりたいと言ったところ、新日本プロレスの道場を勧められ、そこで練習生としてトレーニングを始めた。最初はベンチプレス50kgを3回ぐらいしか持ち上げられず、寮長の小林邦昭から叱咤されて次の日から体を徹底的に鍛え始めた。山崎は休憩時間になると学校の非常階段に出て3段目に足を乗せて腕立て伏せを行って鍛えたといい、そのせいか中学時代は成績が悪かったという。都立玉川高校時代は柔道部に所属していたが当時の部員は3人のみであり、稽古ではプロレスごっこをして過ごすことがあった。柔道の段位は初段であり、申請はしていないが二段の昇段試験に合格したことがある。高校時代にはまた『プロレススーパースター列伝』に影響を受けてスクワットが1000回できるように練習を行った、柔道部には30kgのセットしかなかったベンチプレスの機材をどんどん買い足して高校卒業時点では130kgもベンチプレスが上がるようになったなど、影響の受けっぷりは相当なものであった。1981年、新日本プロレスに入門[1]
プロレスラー時代

入門して1週間で山崎は「これにはもうついて行けない」と感じたようであり、トイレに置いてあった掃除用のブラシに「これで歯を磨いてはいけません」と書いてあったのを見たことなどを後に明かしている。それでも山崎は、あまりにも地元と合宿所とが近すぎて逃げると知り合いに見つかって目立つため、我慢して稽古などに励んだ。入門して最初に与えられた雑用の係は「薬箱係」という救急箱の管理を行うものであった[1]

細身ながら、同じ頃に若手だった高田延彦らと名勝負を重ねる。この頃の得意技はミサイルキックで、初勝利もこの技でフォールを奪っている(相手はデビュー戦だった後藤達俊)。同じ技を得意としていた高田との試合は「青春のミサイルキック合戦」と言われ、第1試合でありながら観客の入りが良く、評価が高かった。

また、この頃に佐山サトル初代タイガーマスク)の付き人を務めており、このことが後のプロレス人生やファイトスタイルに大きな影響を与えた。佐山は山崎の5学年年上と年齢が近かったため佐山との関係は堅苦しいものではなかった。試合直後のシャワールームでは付き人は予め石鹸を泡立ててタオルにつけ、先輩レスラーが何も言わずに背中を向けるとそのタオルで背中を流さなければならなかったが、佐山はそれら全部を自分でやったという[1]。初代タイガーマスクが小林邦昭にマスク剥ぎをされた際には、替えのマスクを持った山崎がリングに上がり、タイガーに被らせる場面がテレビに写され、二度目以降のマスク剥ぎの際には、試合会場から「山崎(山ちゃん)、早く?」という悲鳴が上がるようになった。

佐山の引退(新日本プロレスを退団)後も新日本に残留して前座を沸かせていた(高田とのシングルマッチはTV中継された)。その後、佐山のタイガージム開設時に退団し、同ジムのインストラクターを務めていたが、1984年、佐山が第1次UWFへ参加することが決定した際、一緒に入団。前田日明、高田延彦、藤原喜明木戸修らと活動する。佐山のスーパータイガージムでもインストラクターを務め、佐山と共に指導者としても活動した。

1985年、佐山の第1次UWF退団時に佐山と袂を分かちUWFに残留するも同年12月、団体崩壊に伴い、他選手たちと古巣の新日本に復帰。主にIWGPジュニアヘビー級戦線やタッグ戦線などで活躍し、藤原喜明と共にIWGPタッグ王座を獲得したこともある。

1988年、前年の顔面蹴撃事件を元に新日本を退団していた前田が第2次UWFを旗揚げすると、これに賛同し新日本を退団。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:74 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef