山岸凉子
[Wikipedia|▼Menu]

山岸 凉子
生誕 (1947-09-24)
1947年9月24日(76歳)
日本北海道
職業漫画家
ジャンル主に 少女漫画
代表作『アラベスク
天人唐草
日出処の天子
妖精王
舞姫 テレプシコーラ
『レベレーション(啓示)』
受賞講談社漫画賞
手塚治虫文化賞マンガ大賞
テンプレートを表示

山岸 凉子(やまぎし りょうこ、1947年昭和22年〉9月24日 - )は、日本漫画家北海道空知支庁管内(空知郡上砂川町出身[1]北海道札幌旭丘高等学校北海道女子短期大学(現・北翔大学短期大学部)美術科卒業。名を「涼子」(さんずいの涼)と書くのは誤りで「凉子」(にすい)が正しい。萩尾望都大島弓子竹宮惠子らと共に24年組と呼ばれる一人である。

1969年、「レフトアンドライト」でデビュー。1971年から連載されたバレエ漫画『アラベスク』で注目され、1980年から連載された『日出処の天子』は1983年度第7回講談社漫画賞を受賞した。1977年から連載された『妖精王』は1988年にアニメ化。2000年から『舞姫 テレプシコーラ』の連載を開始し、同作で2007年度第11回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。
来歴

北海道上砂川町出身の両親の元に生まれる[2]。2歳上の兄と、1歳下の妹がいる[1]三井鉱山の社員であった父親の転勤に伴い、2歳で函館、小学校3年生で小樽、中学2年生で札幌に転居する[3]。札幌に転居後、母親が大病を患い入院する[4]

市立札幌旭丘高校2年生のとき、妹がたまたま買ってきた漫画雑誌に掲載されていた里中満智子のデビュー作をみて、自分と同じ年齢の人がデビューしていることに衝撃を受け漫画家を志す[5]。高校3年生のときに母親が死去する[6]

1968年3月、北海道女子短期大学美術科を卒業、4月からアルバイトを始め、貯めたお金で東京に行き原稿をもって出版社を回る[7]。最後に持ち込んだ『りぼん』編集部の目にとまり、『りぼんコミック』1969年5月号掲載の「レフトアンドライト」でデビューする[8]。1969年10月、上京し、杉並区下井草四畳半のアパートに入居する[9]。お風呂がなかったため、一駅隣りの鷺ノ宮に住んでいた同郷の大和和紀忠津陽子と連絡を取り合って一緒に銭湯へ行っていたという[10]。そこで一年少々過ごしたのち、阿佐谷の新築アパートに転居、上京してきた妹も同居するようになった[11]

1971年からりぼんにて連載開始された『アラベスク』は、少女漫画界初の本格バレエ漫画として人気を得た。1972年秋には萩尾望都竹宮惠子らと長期の海外旅行に出かけ、ソ連で本場のバレエを鑑賞してきた[12]

1974年から花とゆめに場を移して描かれた『アラベスク』第二部では、華麗なイラスト的表現を、また、少女である主人公が大人の女性へと成長する様子を描くなど、当時は前人未到であった手法やテーマを積極的に開拓していった。

妹が婚約したことにより同居生活を解消し、その後、千葉県の我孫子ひばりが丘と転居、原稿締め切り前の追い込みではアシスタントが8人ほど来て騒がしくなるためアパート住まいでは限界を感じ、1979年国分寺に2階建ての一軒家を新築する[13]

1980年、『LaLa』で代表作『日出処の天子』を連載開始する。主人公である聖徳太子が超能力及び霊能力者であり、また生育環境が原因の同性愛者であるという設定は当時センセーションを巻き起こした。1983年度第7回講談社漫画賞を受賞した。

2000年ダ・ヴィンチにて『アラベスク』から約30年ぶりとなるバレエ漫画『舞姫 テレプシコーラ』の連載を開始する。同作で2007年度第11回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞。2011年をもって連載終了した。

2011年ダ・ヴィンチにて『ケサラン・パサラン』の連載を開始、2012年10月号で終了した。2014年に『モーニング』にて、百年戦争を題材としたジャンヌ・ダルクを主人公とした『レベレーション(啓示)』の隔月連載を開始し、2020年10月に完結した。

2016年弥生美術館にて展覧会「山岸凉子展 「光 ?てらす?」 ―メタモルフォーゼの世界―」が開催された[14]。翌年には京都国際マンガミュージアムでも開催された[15]2019年には生まれてから2歳まで過ごした北海道上砂川町でトークショーを開催した[16]

漫画の電子書籍版は発売されていなかったが、2021年10月4日にKADOKAWAと講談社から初めて発売されることになった[17]
作風

幼い頃から
オーブリー・ビアズリーの絵を好み、ビアズリーのように細くはっきりと描けたらと思っていたという。

漫画はほとんど読んでいなかったが、高校2年の頃に白土三平の「カムイ伝」に影響を受け、漫画家になろうと決意する。白土の作品姿勢と美しいシャープな描線を目標にして漫画家になれるまでの苦しい4年間を頑張り抜いた。[18]

デビューから数作は編集部の意向で丸顔の可愛い絵柄であったが、1971年発表の「雨とコスモス」でがらっと変更したところ「野獣のような顔」と非常に不評であった[19]水野英子は山岸との対談において、山岸の描く細い線は衝撃的であったと言い、「漫画史的に言うと、あれで手塚タッチから解放された」と述べている[20]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:60 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef