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この項目では、歴史上の党派について説明しています。その他の用法については「山岳党」をご覧ください。
山岳派
Montagnards
指導者ジョルジュ・ダントン
マクシミリアン・ロベスピエール
ポール・バラス
ベルトラン・バレール
山岳派(さんがくは、フランス語: Montagnards[1][2][9]; Montagnard[4], モンタニャール[4])とは、元々は党員が立法議会の最も高い位置の議席に座ったことでその名が付けられた[9] フランス革命期の政治党派で[1]、革命期最大の政治結社であったジャコバン派を母体とする[12]。後にロベスピエールらを中心とする国民公会における左翼勢力となり[2]、ジロンド派追放後は公安委員会を柱とする恐怖政治を行い[4]独裁的権力を掌握するも分派の対立[1]やロベスピエールの失脚によって解体、衰退していった[2]。 山岳派は最も急進的な党派であり、ジロンド派と対立した。「山岳派」の呼称が初めて用いられたのは立法議会の会期中で、広く用いられるようになったのは1793年だった。1793年の夏の時点では、山岳派とジロンド派と呼ばれる二つの小会派が同等の勢力をもち、国民公会を二分していた。1793年のうちに山岳派は勢力を拡大し、マクシミリアン・ロベスピエールに率いられて恐怖政治の中心となった。 山岳派は主に中間階級出身者で構成されていたが、実際はパリの選挙区から選出された者達の集まりだった。それゆえ山岳派は都市の意向に敏感で、労働者階級サン・キュロットの要求に強く反応した[13]。農村の土地改革を行おうとしたこともあったが、殆どは実行に移されなかった。山岳派は農村部の要求よりも都市の労働者階級の要求に応えようとする傾向があった。山岳派はパリに最善であることがフランス全土に最善であるとの信念で活動した[14]。 ジロンド派は立法議会時代に作られた穏健派の党派であった[15]。ジロンド派は、過激な山岳派の代議士にとって、敵とでもいうべき存在だった。ジロンド派はルイ16世の処刑を避けることを望み、投票によって立法を覆せる憲法を支持した[15]。山岳派はジロンド派がパリに対して陰謀を企んでいると激しく非難した。なぜならジロンド派が提案した憲法のこの注記により、フランスの農村部は山岳派の主要な選挙区であるパリの利益になる法律に反して投票できるようになるからである。しかし実際に対立が生じたのは、山岳派とジロンド派の間ではなく、山岳派のうち少数の好戦的な者と国民公会の多数派の間であった、という指摘も存在している[16]。 山岳派は全体としては党派としてまとまっておらず、自身が異なる党派を代表することになるマクシミリアン・ロベスピエールやジョルジュ・ダントン、ジャック・ルネ・エベールのような指導者を当てにした[17]。
概要