凡例山岡 景友
園城寺所蔵
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文9年(1540年)または同10年(1541年)
死没慶長8年12月20日(1604年1月21日)
改名山岡景宗 → 光浄院.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}暹慶(せんけい) → 山岡景友 → 道阿弥(法号)
別名景宗[1]、山岡光浄院[2]、権大僧都、宮内卿法印、通称:八郎左衛門尉、備前守、法名:暹慶、道阿弥(どうあみ)、暹景[3]
墓所知恩院信重院(京都市東山区林下町)
官位備前守
幕府室町幕府 上山城守護
江戸幕府 甲賀同心支配役
主君足利義昭→織田信長→柴田勝家→織田信雄→豊臣秀吉→徳川家康
藩常陸古渡藩主
氏族山岡氏
山岡 景友(やまおか かげとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶、大名、武将。豊臣秀吉の御伽衆。江戸時代初期の大名で、常陸国古渡藩の初代藩主。後年、再び剃髪して道阿弥と号したため、山岡 道阿弥(やまおか どうあみ)の名でも知られる。 天文9年(1540年)、六角氏家臣の勢多城主山岡景之の四男として誕生した。初名は景宗[1]。甲賀を出自とする一族の出身である[6]。 領内にあった園城寺光浄院[8]の住持となり、号を暹慶(せんけい)とした。室町幕府の奉公衆と親しく、政所代の蜷川親長とも親交があった。 15代将軍・足利義昭により幕臣に取り立てられ、『耶蘇通信』では「将軍の寵臣」との記述がある[2]。
生涯
元亀4年(1573年)、織田信長と義昭の戦いが始まり、信長包囲網が敷かれると、他の兄弟が織田氏方に付く中で、暹慶は義昭に従った。
同年2月、磯谷久次、渡辺昌らと近江国石山・今堅田に兵を入れ、暹慶自ら石山城に立て籠もり抗戦した(石山城・今堅田城の戦い)[2]。しかし、同月26日に織田家臣の柴田勝家に攻められ、織田方に付いていた兄・景隆の説得を受け降伏・開城した[2]。
義昭追放後、還俗して「山岡八郎左衛門尉景友」と称し、信長に仕えた[2]。織田家へ仕官後は兄らと共に佐久間信盛の与力となったと考えられており、信盛追放後に高野山へ信盛を訪ねている記録が残る[2]。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死すると、兄・景隆と共に行動し、明智光秀の降誘を拒絶。