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記念碑が建つ佐久市鼻顔公園.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学
山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3月23日)は、日本の詩人・文芸評論家・翻訳家。 教師であった父茂次郎、母いまの第5子として、赴任先の鳥取県鳥取市に生まれる。兄に中部日本新聞社社長となった山室次郎、九州大学教授・中国哲学者の山室三良がいる。母も断続的に教師として勤務していた。7歳から父母の郷里である長野県北佐久郡岩村田町(現佐久市)で育ち、旧制野沢中学(現在の長野県野沢北高等学校)卒業後、代用教員などを務め) 1927年に岩波書店に入社、東洋大学夜間部、日本大学夜間部に通い、1930年に労働争議により岩波書店を退社、アンドリュウス商会に勤めたが、1937年に同社の解散により失業している。1939年、評論集『現在の文学の立場』を上梓する。1939年、阿部次郎を慕って東北帝国大学法文学部(現在の文学部)美学科に入学し、1941年に繰り上げ卒業[1]となった。 1932年、25歳の時、プロレタリア科学研究所に属し、本多秋五、平野謙らの知遇を得るとともに、同年代の文筆家と交流を深める。共産主義に傾倒した結果、1933年に逮捕拘留され、その後も2度留置されるなど弾圧を受ける。1936年、生涯の伴侶となる美喜と結婚する[2]。 1946年に、埴谷雄高、小田切秀雄、本多秋五らとともに雑誌『近代文学』を創刊する。また堀辰雄らと共に文芸雑誌『高原』の創刊にかかわる。この時期以降、ヤコブセン、ノヴァーリスの翻訳や各種評論などを精力的に執筆する。文学研究者としての刊行本も、『島崎藤村読本』『評伝森鴎外』『世界文学小史』『世界神話』『アンデルセン童話玉選』など多数に及ぶ。 1958年に日本女子大学講師となり、のち教授に就いた。1961年、オランダで開催された国際比較文学会に日本代表として出席する。
来歴・人物