やまもり ふみお
山守 文雄
生誕 (1967-02-20) 1967年2月20日(57歳)
日本 愛知県名古屋市出身、兵庫県宝塚市育ち
出身校日本大学芸術学部映画学科撮影・録音コース
職業テレビプロデューサー
作家
漫画原作者
活動期間1999年 - 現在
団体株式会社ディーイー
著名な実績漫画原作「鉄子の育て方」
影響を受けたもの山田洋次
スティーヴン・スピルバーグ
テレビ番組大泉洋「新幹線通ったら人生変わった」
的場浩司「スイーツ男子塾」
松平健「記憶のロケ地を巡る旅」
ナイツとKis-My-Ft2「Go!Go!ニンじゃぽん」
かまいたち「AIカレー研究所」
バイきんぐ小峠英二「旅デューサー」
フットボールアワー「走れ!ふるさと婚活列車。」
ロバート「俺の旅番組」
FUJIWARA「技ありキッチン」
NON STYLE井上裕介「世界食堂」
ドラマ「僕の秘密★兵器」
ドラマ「熱いぞ!猫ヶ谷!!」
ドラマ「もっと熱いぞ!猫ヶ谷!!」
ドラマ「鉄子の育て方」
ドラマ「ラブホ!」
ドラマ「ケータイ少女 ?恋の課外授業?」
肩書き元鉄道チャンネル放送局長
配偶者山守麻衣
公式サイト山守文雄
山守 文雄(やまもり ふみお、1967年2月20日 - )は日本のテレビプロデューサー、作家、漫画原作者。元鉄道チャンネル放送局長で、日本で一番鉄道番組を作っている。愛知県名古屋市出身、兵庫県宝塚市育ち。日本大学芸術学部映画学科撮影・録音コース卒業。妻は作家の山守麻衣。 1967年生まれ。テレビ番組プロデューサーで、旅・グルメ番組を中心に美術館・鉄道・離島・カレーなどあらゆる分野を制作する。現在、日本一鉄道番組を作っているとメディアで紹介されている。 1967年(昭和42年)2月20日、愛知県名古屋市で生まれる。育ちは兵庫県宝塚市。3人兄弟妹の長男。父は総合商社ニチメンで木材の輸入を担当する商社マンで転勤族だった。宝塚市第一小学校、ジャカルタ日本人学校中等部、川西緑台高等学校を卒業。モノづくりに目覚めたのは、高校時代の演劇コンクールで大好きだった『男はつらいよ』の寅さんを演じたのがキッカケ。映像の世界に興味を持ったのは11才のときに父がビデオカメラを買ってきてくれたことから。VHSビデオがまだない時代、オープンリールの6ミリのテープに白黒の映像を記録するビデオカメラは珍しいものだった[1]。 1989年(平成元年)映像の世界に魅了されたまま日本大学芸術学部映画学科撮影・録音コースに進学。同時代に俳優の大鶴義丹、大塚寧々が在学。「手相研究会」というサークルに入っていたが、映像を作ることが流行っていた時代で自ら映像制作集団「月面工房」を設立。メンバーの1人に『やすらぎの郷』『個人差あります』の TVプロデューサー・河角直樹(大映テレビ→東海テレビ)も在籍していた[1]。 大学は7年通うことになるが、大学在学中から映像制作の会社を起業。大学5年生のときに朝日新聞の映像コンテストで「ガムテープの旅」という作品を応募。審査員の映画監督・大島渚から高い評価を得て準優勝に選ばれ、50万円を貰った。その50万を使って京都の太秦撮影所で短編の時代劇を制作した[1]。 1995年(平成7年)、『進め!電波少年』を作っていた映像制作会社「ザ・ワークス」に入社。当時の応募年齢制限が24才で応募倍率150倍のところ、何故か28才で合格。過去をさかのぼっても新入社員の最高年齢だった[1]。 天笠班(現在ザ・ワークス副社長の天笠ひろ美)に配属され、フジテレビ『上岡龍太郎にはダマされないぞ』のADを担当。そこで『とんねるずのみなさんのおかげです』『サタ☆スマ』を手掛けた李闘士男(現在リーライダーす社長)のもとで3年間、制作のいろはを学ぶ。李から「毎回違うことをしような。やったらええねん、なんでも。やってから考えればええねん」と教わった。その後、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のADを担当。日本テレビの財津功(父は財津一郎)から編集術を学んだ[1]。 2003年(平成15年)、36才のときに『週刊アスキー』を読んでいたところ「インターネットで映像が流せる」という記事を目にする。すぐさまアスキーへ問い合わせしたところ編集長の福岡と意気投合して『インターネットテレビを作ろう』というタイトルで連載することになった。さらに『週刊アスキー』とネットテレビのはしりであった『itv24』というネット動画配信事業を始める。しかしアスキーが倒産し、KADOKAWAグループに吸収されることとなり、事業は3年で終了した[2]。 並行しながらドラマ班の霜田一寿(現在ザ・ワークス社長)から呼び出され、ドラマを全国のローカル局で売れないかと相談を受ける。会社としても初の試みであったが、福士誠治主演のドラマ『19borders』を30放送局に売ることができた[3]。そのことをキッカケに「お金をもらって作る」ビジネスから「作って地方局に買ってもらう」ビジネスに光明をもち、自ら企画・プロデューサーという道を広げた[1]。 2011年(平成23年)6月に独立。44才で「株式会社ティーズ」を立ち上げる。先輩ディレクター達が40才くらいから会社を辞めていき、50才にはほぼ全員周りからいなくなっていくことに不安を持ち、山守の理想を叶える映像制作会社を立ち上げた。たまたま営業に行った株式会社エキスプレス取締役の田村堅三が、偶然川西緑台高校の先輩だったことで意気投合。
概要
経歴
幼少期・学生時代
ザ・ワークス時代
会社起業?「鉄道チャンネル」立ち上げ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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