凡例山国 兵部
時代江戸時代末期(幕末)
生誕寛政5年(1793年)
死没慶応元年2月4日(1865年3月1日)
別名共昌(諱)、喜八郎、止戈堂
墓所神応寺(茨城県水戸市)
福井県敦賀市松原
主君徳川治紀、斉脩、斉昭、慶篤
藩水戸藩軍用掛、目付
父母山国共綿
山国 兵部(やまぐに ひょうぶ)は、幕末期の水戸藩士、志士。兵部は通称で、名は共昌。徳川斉昭に仕えて国事に奔走したが、晩年天狗党の乱に中途より加わり、その幹部として処刑された。 水戸藩士・山国共綿
生涯
元治元年(1864年)天狗党の乱では太平山に駐屯する天狗党鎮撫を命じられるも成らず、かえって罪を問われて幽閉された。しかし水戸慶篤の名代として出陣した宍戸藩主松平頼徳が水戸城の反天狗党(諸生党)の反発を受けるや、幽居を出て頼徳の指揮下に入る(大発勢)。頼徳が幕命で自刃した後は武田耕雲斎ら天狗党に加わり、朝廷へ直訴のため上洛を計画。大軍師に就任し、天狗党の追討を試みた高崎藩兵、高島藩兵、松本藩兵をしりぞけながら西上するも、越前国敦賀で捕らえられ、慶応元年(1865年)2月に武田や藤田小四郎、弟の稲之衛門らとともに斬首となった。辞世の句は「ゆく先は冥土の鬼と一と勝負」。
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参照文献
鈴木暎一「山国兵部」「天狗党の乱」(『国史大辞典』吉川弘文館)
『日本人名大辞典』講談社