山名満時
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 凡例山名満時
時代室町時代
生誕応永3年(1396年
死没応永27年1月21日1420年3月14日[1]
戒名栖真院
官位宮内少輔伊予守刑部少輔修理大夫
幕府室町幕府侍所頭人
主君足利義持
氏族山名氏
父母父:山名時熙
兄弟満時、持熙持豊(宗全)
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山名 満時(やまな みつとき)は室町時代武将山名時熙の嫡男。室町幕府侍所頭人。宮内少輔伊予守刑部少輔修理大夫。弟に山名持熙山名持豊(宗全)がいる。
生涯

応永3年(1396年)、山名時煕の子として生まれる。元服時に将軍足利義満と父・時煕より1字ずつ賜って満時と名乗る。応永21年(1414年3月12日、19歳で侍所頭人に就任する。応永24年(1417年)正月、将軍・足利義持(義満の子)は山名亭へ御成したが、山名氏の歓待振りを賞して、山名時熙を右衛門督へ、息子伊予守を刑部大輔へ昇進させるとした。この息子が満時と考えられている[2]。義持は半年後の9月にも時熙・満時両館を訪れている[3]。山名家の後継者として将軍家からも嘱望されていた満時であるが、この後病に倒れ、3年間、床に臥した後、応永27年閏正月21日に早世した。享年25。父時熙は嫡男の死を大いに嘆き、南禅寺に栖真院(せいしんいん)を建て息子の菩提を弔った。満時の死は、山名家に家督問題を生じさせ、永享年間の持熙・持豊の対立、持熙の挙兵・敗死にまで発展することとなる。
脚注^看聞日記』閏正月21日条、『康富記』閏正月22日条。『康富記』に「今暁」没したとあるため、22日没とする場合もある。
^ 『看聞日記』正月23日条。ただし、実際にはこの後、刑部大輔ではなく刑部少輔に任ぜられたようである。
^ 『康富記』9月25日条。この時は「刑部少輔満時」とされている。

参考文献

川岡勉『山名宗全』(吉川弘文館ISBN 978-4-642-05252-8

山本隆志『山名宗全 金吾は鞍馬毘沙門の化身なり』(ミネルヴァ書房ISBN 978-4-623-07358-0


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