山名文夫
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山名 文夫
Ayao Yamana
1953年
生誕1897年7月17日
日本 広島県広島市
死没1980年1月14日(満82歳没)
日本 東京都
出身校旧制 和歌山県立和歌山中学校 卒業
赤松麟作洋画研究所 第2期生
職業

イラストレーター
グラフィックデザイナープラトン社 図案家
東京広告美術協会 代表
日本工房 図案家
多摩造形芸術専門学校 図案科教授
日本宣伝美術会 初代委員長
日本デザイナー学院 初代学院長
資生堂宣伝部制作室長
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山名 文夫(やまな あやお、1897年7月17日 - 1980年1月14日)は、日本のイラストレーターグラフィックデザイナーである。日本のグラフィックデザインの黎明期における先駆者の一人で、大正期から昭和初期にかけてのモダンなアール・デコスタイルで知られ、資生堂の現在にもつづくキーデザイン、紀ノ国屋のロゴ、新潮文庫の葡萄マークのデザインで知られる。
経歴

1897年(明治30年)7月17日広島県広島市に生まれる。山名に影響を与えたビアズリー

少年期から竹久夢二北野恒富オーブリー・ビアズリーに憧れ、模写に没頭する。旧制・和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)後、1916年(大正5年)[1]大阪へ出て、赤松麟作が主宰する「赤松麟作洋画研究所」第2期生となり、絵画を学ぶ[2]。同研究所の第1期生には佐伯祐三がいた。20歳になる1917年(大正6年)、同人誌『Chocolate』(チョコレート)に加わり、夢二や北野、ビアズリーらの絵に影響を受けた作品や詩を発表した[3]

1923年(大正12年)、「クラブ化粧品」で知られる大阪の化粧品会社・中山太陽堂が併設する出版社「プラトン社」に入社し[1][2]図案家として雑誌『女性』や『苦楽』の表紙装丁やカットなどに腕をふるう。同期入社のデザイナーには山六郎、編集者には、小山内薫の推薦で入社し、のちに小説家となる直木三十五(当時「直木三十二」)、川口松太郎の2人がいた。1924年(大正13年)、第一回「大阪市美術協会展覧会」に入選。同年、雑誌『サンデー毎日』(毎日新聞社)に挿画を連載し始めた。参考・アール・デコ建築、クライスラービル

1928年(昭和3年)、プラトン社を退社、翌1929年(昭和4年)、東京・新橋の化粧品会社・資生堂の意匠部に入る[1][2]。プラトン社で培われた実力がここで花開き、アール・デコ調の「モダン・ガール」を資生堂広告紙上で完成させてゆく。西洋のものまねや技術の習得に終始していた修練を終え、大正期の日本に、女性をめぐって起こりつつあった新風俗や新文化にいち早く呼応して、それを目に見えるかたちに置き換えた。

1931年(昭和6年)、34歳になるころ資生堂を退社し、「東京広告美術協会」を設立した。1933年(昭和9年)、写真家土門拳藤本四八、グラフィックデザイナーの河野鷹思亀倉雄策らとともに、写真家の名取洋之助の第2次「日本工房」に参加し[1]、雑誌『NIPPON』のレイアウトなどを行う。このころ、熊田五郎が山名に師事し、ともに『NIPPON』のデザイン等に従事した。

1936年(昭和11年)、「日本工房」を退社して資生堂に戻り、1939年(昭和14年)、東京市世田谷区成城町392番地(現在は東京都世田谷区成城6丁目)に自宅兼アトリエを開いた[4]。このとき資生堂には1943年(昭和18年)まで在籍[4]し、その後、森永製菓の新井静一郎らとともに「報道技術研究会」(報研)にも参加した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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