この項目では、長岡市併合後の山古志地域について説明しています。併合前の新潟県古志郡山古志村については「山古志村」をご覧ください。
山古志地域
やまこし
国 日本
地方中部地方、北陸地方
甲信越地方
都道府県新潟県
自治体長岡市
旧自治体山古志村
面積39.83km²
世帯数358世帯
総人口809人(登録人口
山古志(やまこし)は、新潟県長岡市の南東部に位置する地域。2005年4月1日に同市に編入合併された旧山古志村に相当する。 丘陵地の斜面に広がる森林と棚田、ニシキゴイの養殖、そして「牛の角突き」と呼ばれる闘牛など「日本の原風景が残る村」を観光資源としてPRしている[2]。周辺の中山間地域と合わせて二十村郷(にじゅうむらごう)とも呼ばれており[3]、この地域は「雪の恵みを活かした稲作・養鯉」として日本農業遺産に登録されている。 2004年10月23日に発生した新潟県中越地震により甚大な被害を受けた山古志村は全村避難となり[4]、隣接する長岡市などでの避難生活を余儀なくされた。避難指示の解除後は各集落で住宅の再建や修繕が行われた。木籠集落や楢ノ木集落など、村内で移転して再建した集落もあるほか、村内には復興モデル住宅として景観に配慮した下見板張りと漆喰調の白壁の公営住宅が建設された[5]。しかし震災以降に地域外へ生活拠点を移した世帯も多く、域内の高齢化は深刻である。 四方を低山で囲まれており、傾斜地の割合が高いことから棚田が古くから発達した。 中越地震で発生した地滑りは河道閉塞によって地域内各地に天然ダムを形成し、現在も芋川流域などに確認することができる。 全域が特別豪雪地帯に指定されており、住宅は1階をRC造の倉庫や車庫としてその上に木造の2、3階を置く高床式のものが多い[5]。 旧・山古志村役場が山古志支所となり、市民サービス窓口を開設している。
概要
地理
山:猿倉岳(679 m)、尖山(594 m)、金倉山
河川:芋川など、いずれも信濃川水系に属する。
湖沼:小規模な沼がいくつか点在する。
歴史中越地震前までの歴史については「山古志村」を参照
2004年
10月23日 - 新潟県中越地震により甚大な被害を受け、全村民が避難を余儀なくされる。道路が寸断されたため路線バスも運休。
12月10日 - 陽光台仮設住宅への入居開始[7]
2005年
4月1日 - 山古志村、長岡市に編入合併。
7月22日 - 避難指示解除(種苧原・虫亀・竹沢・間内平・菖蒲・山中・桂谷・小松倉)[7]
2006年
(時期不明) - 新潟県立長岡農業高等学校山古志分校が閉校する[8]
8月12日 避難指示解除(油夫)[7]
9月1日 - 山古志支所開所式。同日、コミュニティバス(後のクローバーバスとは異なる)が運行を開始する[7]
2007年
4月1日 避難指示解除(池谷・楢木・梶金・大久保・木籠)[7]。地域内すべての避難指示解除完了
8月15日 牛の角突き再開[7]
12月14日 - コミュニティバスが廃止される[9]
12月15日 - コミュニティバス廃止の翌日[注釈 1]、希望する村民の帰村が完了する
12月31日 - 陽光台仮設住宅を閉鎖[7]。同日、運休の続いていた越後交通グループの路線バスが廃止となる
2008年
1月1日 - 古志高原スキー場営業再開[7]
7月1日 - クローバーバス運行開始[7][10]。当初は5年間の期間限定を予定していたがその後も運行が続けられている(2019年現在)。
9月 - 天皇・皇后(現・上皇・上皇后)が地域を訪問、闘牛や錦鯉の養殖場を視察[11]。
2009年
10月11日 山古志闘牛場リニューアルオープン[7]
11月2日 - コロラド州より寄贈されたアルパカ3頭が到着[7][12]。
山古志「花々とともに進む心の復興」が、平成21年度国土交通省手づくり郷土賞受賞[13]
2013年 10月23日 - やまこし復興交流館 「おらたる」 開館[14]
2019年 3月17日 - 国土交通省による県内初の自動運転サービス実証実験が行われる[15]
2022年
2月14日 - NishikigoiNFT 第1弾 販売開始[16]
2月26日 - デジタル村民総選挙投票実施[17]、同月28日終了[18]
3月9日 - NishikigoiNFT 第2弾 販売開始[17]
行政