山口高等商業学校
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山口高等商業学校
(山口高商)
創立1905年
所在地山口県
山口町
(現・山口市)
初代校長松本源太郎
廃止1951年
後身校山口大学
同窓会鳳陽会

山口高等商業学校(やまぐちこうとうしょうぎょうがっこう)は、1905年明治38年)4月に設立された旧制専門学校で、略称は山口高商(-こうしょう)である。

なお、本項目は改称後の「山口経済専門学校」(-けいざいせんもんがっこう)についても記述する。
概要

山口高等学校(旧旧山高)を改組して全国3番目[1]の官立高等商業学校として発足した。本科の他、東亜経済研究科・貿易別科・特設予科を設置した。

1919年山口高等学校(再興山高)が設立されるまで、山口県下唯一の高等教育機関であり、3次にわたり大学昇格運動を展開したが実現に至らなかった。

同年設立の長崎高商と並び「アジアで活躍する人材」の育成を標榜し、特に東アジアとの関係を重視した。

教員の大半は東京商科大学京都帝国大学経済学部神戸商業大学の出身者によって占められていた。

第二次世界大戦中の1944年4月に山口経済専門学校(山口経専)と改称した。

新制山口大学経済学部の構成母体になった。

卒業生により同窓会「鳳陽会」(ほうようかい)が組織され、山口大経済学部の同窓会として継承されているが、その名称は山口高商の寄宿舎「鳳陽寮」(ひいては上田鳳陽)にちなむものである。

沿革
前身諸校と設立の経緯「山口高等学校 (旧制)」も参照

山口高等商業学校は、他の官立高商と異なり、旧制高等学校である旧・旧制山口高等学校を前身としている点に特徴がある。前身校たる「旧旧山高」は、1815年文化12年)に上田鳳陽により開設された私塾「山口講堂」を淵源とし、1866年に尋常・高等の2つの中等科を設置する官立の山口高等中学校として発足、1894年9月、山口高等學校と改称したものである。この際、従前の本科を基礎に専門学部を置かず大学予科のみを設置、尋常科は山口縣立山口中學校として分離された。

山口高商は、1905年2月25日の勅令第40号「山口高等學校ヲ山口高等商業學校ト改稱スルノ件」にもとづき、同年5月、旧旧山高を高等商業学校に改組・転換する形で全国3番目(後出)の官立高等商業学校として発足し、修業年限3年の本科を設置した。旧旧山高の廃止(1906年)後も高商に在籍していた山高生は校内に併設された大学予科に収容されたが、これら予科生の卒業を待って1907年7月大学予科も廃止となり高商への移行が完了[2]1907年5月には開校式を挙行した。
教育・研究の拡充

山口高商の教員は、先行の東京高商(のち東京商大)・京都帝大法科(のち経済学部)の出身者によって大半と占められており、その後、(官立)神戸商大出身者も増加した。

本校は設立当初から「滿韓地方ノ實業ニ從事」する人材の育成を標榜し、第二外国語科目として「」2言語の選択を指定、1907年以降は満韓・清韓方面の修学旅行が開始され、生徒には報告書の提出が義務づけられた。1908年4月には中国人留学生を対象として修業年限1年の特設予科が設置されたが、3年後の1911年10月、修学旅行をめぐる清国留学生の同盟休学事件が起こったため廃止となっている[3]

第一次世界大戦開始後、日本の近隣アジア諸国への経済進出が本格化すると、高商各校ではこれらの地域での貿易実務者の養成に力を入れたが、山口高商においても1915年4月、本学卒業者を対象に「対支商業」に必要な知識の修得を目的とする、修業年限1年の「支那貿易講習科」を設置、1918年には「支那貿易科」と改称した。さらに1929年には、日本の市場圏拡大を背景に、中等学校卒業者を対象に中国・南アジア・南米の市場開拓に従事する人材の速成教育を目的とする、修業年限1年の「貿易別科」が設置された。

教育の拡充とともに研究活動も進展がみられた。1908年には各地の商品見本を学外にも公開する「商品陳列室」が竣工し、同年より1920年に至るまで生徒による内外各地の実地調査制度が行われた。また1917年2月には学内研究団体として東亜経済研究会が発足し、同年5月より機関誌『東亞經濟研究』の刊行が開始され、次いで1927年10月に発足した山口高商商学会を刊行主体として『山口商學雑誌』が創刊された。以上の動きと並行して研究拠点の整備も進み、1921年7月には商業研究所が設置され、その後「調査部」(1922年)⇒「調査課」(1926年)と改称された。

これらの動きとともに山口高商は旧制大学への昇格運動をすすめた。設立直後の1905年には早くも大学昇格運動が起こっているが、大正期に入り高等教育拡充の動きが本格化すると、1918年、山口高商は商科大学への昇格運動(第2次)を進めたが実現しなかった[4]
戦時体制下での改編

1930年代以降、山口高商は満蒙進出という日本の国策に迎合する動きをみせることとなった。1933年4月には調査課を拡充して「東亜経済研究所」を設置、同所は以後1940年前後に至るまで高商各校で本格化するアジア調査・研究機関の設立の嚆矢となった[5]1935年10月には東亜経済博覧会を開催して満蒙事情に関する啓蒙活動を行い、1936年3月には満洲国留学生受け入れのため「留学生特設予科」を復活した。1939年には本科を第1部と第2部に分けて後者を「支那科」とし、また卒業生を対象とする支那貿易科を「東亜経済研究科」と改称した[6]

しかし1941年12月の太平洋戦争勃発は、以上に述べた時局色の濃い教育・研究の遂行も不可能にした。開戦直後には修業年限が2年9ヶ月、翌1942年にはさらに2年6ヶ月に短縮され在校生の学徒出陣がすすめられた。1944年4月、物資の不足により、官立高商のいくつかが「工業専門学校」あるいは「工業経営専門学校」への転換をよぎなくされた際、山口高商は「山口経済専門学校」への改称に止まったが、同年、中等学校修了者を対象とする貿易別科は廃止された。一方、前年の1943年には戦前最後(第3次)の大学昇格運動が高まりをみせ、山口高商を中核とする「官立防長総合大學」構想を実現寸前までこぎ着けたが、戦局悪化により挫折することとなった。
新制への移行

1945年の敗戦以後の占領軍による非軍事化の動きは山口経専の再建にも影を落とした。東亜経済研究所は1946年、占領軍により蔵書を接収されて閉鎖に追いこまれ、同所の機関誌となっていた『東亞經濟研究』も刊行を中断[7]1949年には東亜経済研究科が廃止された。

以上のような動きの中で、山口経専は県下の他の高等教育機関とともに新制の国立総合大学への移行をめざすこととなり、1949年6月、山口大学の発足にともない設置された経済学部の構成母体となり、同時に同大学に包括されて「山口大学山口経済専門学校」と改称した。1951年3月には最後の卒業式を経て廃校となり、山口大への移行が完了した。

山口高商商学会の機関誌であった『山口商學雑誌』は、その後現誌名『山口経済学雑誌』への改称を経て山口大経済学部に刊行が継承された。また戦後の一時廃止をよぎなくされた東亜経済研究所は、1949年、経済学部「資料室」として復活し、その後1957年に旧名で復活[8]、同年、機関誌である『東亞經濟研究』も復刊を果たし、ともに現在に至っている。
年表

前身諸校

1815年:山口講堂開設。

1845年:山口講習堂と改称。

1863年山口明倫館と改称。

1870年:山口明倫館を山口中學校と改称(県立)。

1886年:山口高等中學校と改称。県立より官立に移管。

1894年9月:高等学校令により山口高等學校と改称。

山口高商時代

1905年2月25日勅令第40号「山口高等學校ヲ山口高等商業學校ト改稱スルノ件」発布。

1905年5月:山口高等學校を山口高等商業學校へ転換。


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