山口雪渓
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山口 雪渓(やまぐち せっけい、正保四年(1648年[1] - 享保17年9月4日[2]1732年10月22日))は、江戸時代中期の京都で活躍した漢画系の絵師。名は宗雪。別号を梅庵、白隠など。
経歴西山宗因像」 江戸時代中期 八代市立博物館・未来の森ミュージアム

長谷川等伯の四男長谷川左近1593年 - ?)の門弟とされる[3]。両者は生年が50歳以上も離れており直接師事したとは考えにくいが、「桜楓図屏風」(醍醐寺蔵)の作風から長谷川派に学んだ可能性は高い。また、京狩野狩野永納に学んだとする説もある。粉本主義に反発し、時代や室町時代から桃山時代水墨画に傾倒した。特に雪舟牧谿に私淑し、一字ずつもらい雪渓と号したという[4]。東之寺内に住み、墓所は中京区の善導寺。

仏画の遺作が多い一方、水墨画花鳥画や人物画は、狩野派の特に狩野永徳海北友松に倣った復古的な画風を示す。寛政4年(1792年)版『諸家人物志』では「花卉人物ヲ描クミナ奇想ニ出ツ」と、その画風を「奇想」と評している。中林竹洞は著書『画道金剛杵』付属の「古今画人品評」で、下上品の唐絵の項目に雪渓を挙げている。

弟子に、後に望月派の派祖となる望月玉蟾がいる。
作品

作品名技法形状・員数所有者年代款記・印章備考
Lions; Tiger and Leopard紙本金地著色六曲一双クリーブランド美術館1668年(寛文8年)
桜楓図屏風紙本金地著色六曲二双醍醐寺京都国立博物館寄託
涅槃図清水寺1708年宝永5年)款記「宝永五年二月十二日雪渓六十一歳筆」
涅槃図絹本著色1幅西雲寺(上京区1715年正徳5年)款記「雪渓筆」/「白隠」朱文方印・「雪渓」白文方印[5]
人物花鳥山水図押絵貼屏風紙本墨画淡彩六曲一双朝田寺松阪市1716年享保元年)款記「行年七十三歳雪渓筆」
行蓮社像真正極楽寺1718年(享保3年)
十六羅漢報恩寺1720年(享保5年)同寺は「維摩図」も所蔵
十六羅漢図善導寺同寺は「三十三観音図」「観音図」も所蔵
十六羅漢図紙本著色16幅大倉集古館
李白図紙本淡彩1幅金戒光明寺
梅雀図天寧寺
達磨図大心院
寿老唐子図仁和寺
「群仙図」「花鳥図」「山水人物図」妙心寺塔頭春甫院方丈障壁画[6]
秋冬山水図妙心寺養源院
山水図障壁画源光庵
弾琴図曇華院
開山国師関山慧玄頂相絹本著色1幅曹源寺岡山市
泯江禅師像絹本著色1幅本源寺(茨木市)款記「雪渓筆」/「鼻州等心」朱文方印・「雪渓」白文方印江西祖領後賛(寛保元年(1741年))[7]
瀟湘八景図屏風紙本金地墨画六曲一双シカゴ美術館

脚注^ 「大涅槃図」(清水寺蔵)の落款 「宝永五年二月十二日雪渓六十一歳筆」から逆算で享年85。雪渓には89歳没とする説もあり、没年は享保17年と伝わることから、そこから逆算すると生年は正保元年(1644年)となる。実際これを裏付けるかのように「八十八歳筆」と署名した作品も現存する。しかし、江戸時代の絵師にはしばしば還暦を迎えると実年齢より加算した年齢を作品に記した例(伊藤若冲など)があり、雪渓も同様と見られる。ただし、「大涅槃図」の署名時点で加算が行われていた可能性もある(『蕭白ショック!! 曾我蕭白と京都の画家たち』展図録)。
^ 8日とする説もある。
^ 浅井不旧 『扶桑名公画譜』
^ 白井華陽 『古画備考』
^ 『近世の京都画壇 ?画家と作品?』 京都市文化観光局文化部文化財保護課編集・発行〈京都市文化財ブックス 第7集〉、1992年3月、p.18。
^ 京都文化博物館学芸課編集 『近世京都の狩野派展』 京都文化博物館、2004年9月、pp.126-127,201。
^ 茨木市史編さん委員会 『新修茨木市史 第九巻 史料編 美術工芸』 茨木市、2008年3月31日、口絵70、p.150。

参考文献

『物故書画家人名辞典』

西川新次 有賀祥隆監修 総本山醍醐寺 日本経済新聞社編集 『祈りと美の継承 醍醐寺展 秀吉・醍醐の花見四〇〇年』 日本経済新聞社、1998年、ASIN B07LDRQFQN


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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