山口県立下関西高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度58分20.9秒 東経130度55分44.7秒 / 北緯33.972472度 東経130.929083度 / 33.972472; 130.929083
山口県立下関西高等学校(やまぐちけんりつ しものせきにしこうとうがっこう 英語: Shimonoseki-Nishi High School)は、山口県下関市に所在する公立の高等学校。略称は「西高」(にしこう)、「下西」(しもにし)。[1] 日本の最高学府である東京大学のキャンパスや第一線で 活躍する企業を見学し、将来への「志」や「意欲」を高め理アクティビティを毎年開催、難関大学を志望する仲間と寝食を共にし、刺激的な時間を過ごすことで、生徒同士の一体感を高めることを目的としている。 福岡県有数の進学校(小倉高校・東筑高校)と定期的に合同学習会や模試を実施し、学校内では得られない刺激を得、他校の生徒と自分との違いを認識することで、学習面・精神面でのレベルアップをめざしている。
概要
歴史
1920年(大正9年)創立の旧制中学校「下関中学校」を前身とする。1948年(昭和23年)の学制改革により新制高等学校となった。2019年(平成31年)に創立100周年を迎えた。
設置課程・学科
全日制課程 2学科
普通科
探究科
校地
東駅地区にあり、「旭が陵」(あさひがおか)と呼ばれる高台に校舎が建つ。そのことにちなみ、文化祭は旭陵祭(きょくりょうさい)、同窓会組織は旭陵同窓会と称する。なお下関商業高等学校とは校地を接している。
校舎
創立100周年記念事業として、体育館北のプール跡地に「旭陵館」というセミナーハウスが建設され、授業や自習、集会などに用いられている。
校訓・校是
「天下第一関」を創立当初(旧制中学時代)より校是とする。この語は、万里の長城の最東端にある山海関に掲げてある扁額に由来。また、校訓は「自主・自律」。
校章
1949年(昭和24年)に制定。「高」を形どったシンプルなデザインである。また、「高」の字の下の口の部分のカーブが笑った顔を表している。
校歌
1962年(昭和37年)に制定。作詞は五味智英、作曲は平井康三郎による。歌詞は3番まであり、1番の歌詞は福岡県北九州市門司区にある「風師山」(かざしやま)から始まるユニークなものとなっている。また3番の最後に校是の「天下第一関」が登場。なお、作詞を務めた五味は多忙のため下関を訪問することができず、当時の校長が五味の元へ持参した資料のみで詞を制作した。
通学(全日制課程)
学校より3km以遠に住む生徒に限り自転車通学が認められている。
進学(全日制課程)
旧帝大では東京大学や、大阪大学など毎年数十名が進学、国立大学へは毎年100名超が進学している。私立では昨今東京の私大への進学が減り、早慶上智へは毎年10名強となっている。近年は九州、関西や岡山大学、山口大学等近隣の国立大学への進学が増加し、関関同立へは60名程度と進学者が劇的に増加している[2]。私立大学への進学に関して、以前は東京の大学への進学が圧倒的に多かったが、近年は関西の大学への進学が嗜好される傾向にある。
東大見学会
全国に例のない他県進学校との交流
沿革
1920年(大正9年)
3月7日 - 「下関市立下関中学校」の設置が認可される。
4月15日 - 下関市王司町の文関尋常小学校(現・下関市立文関小学校)校舎を借用し開校。[3]
入学資格を尋常小学校を卒業した12歳以上の男子、修業年限を5年(現在の中1から高2に相当)とする。
1923年(大正12年)
3月22日 - 下関市後田町長六(現・山口県立下関南高等学校校地)に新校舎が完成。
4月1日 - 県立移管により、「山口県立下関中学校」と改称。
1927年(昭和2年)7月 - 同窓会設立。
1930年(昭和5年)
3月18日 -下関市後田町字須朶ノ木に新校舎が完成。
4月9日 - 新校舎に移転。
1932年(昭和7年)7月6日 - 図書館が完成。
1936年(昭和11年)4月20日 - 工業科教室が完成。
1938年(昭和13年)
1月9日 - 剣道場が完成。
2月7日 - 工業漆工室が完成。
1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令が施行される。
この時の入学生から修業年限が4年となる。
「山口県立下関第二中学校」(夜間課程)を併設(定時制課程の始まり)
1944年(昭和19年)- 軍需工場等への学徒動員が始まる。
1945年(昭和20年)
3月 - 4年生(1941年(昭和16年)入学生)と5年生(1940年(昭和15年)入学生)の合同卒業式を挙行。
教育ニ関スル戦時非常措置方策により、中等学校令施行以前に入学した生徒にも修業年限4年が適用されるようになったため。
4月 - 学校での授業を停止。ただし学徒動員は継続。
9月 - 終戦により、授業を再開。
1946年(昭和21年)4月 - 修業年限が5年に戻る(4年で卒業することもできた)。
1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
旧制中学校の募集を停止。
新制中学校を併設し(名称:山口県立下関中学校併設中学校、以下・併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず在校生が2・3年生のみの中学校であった。
旧制中学校3・4年修了者はそのまま在籍し、4・5年生となった(ただし4年で卒業することもできた)。
1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により旧制中学校が廃止され、新制高等学校「山口県立下関高等学校」(男子校)が発足。
旧制中学校卒業者(5年修了者)を新制高校3年生、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業者(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
併設中学校を継承し(名称:山口県立下関高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に旧制中学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
通信教育部を開設。
夜間課程の下関第二中学校は「山口県立下関第二高等学校」となる。
1949年(昭和24年)4月21日 - 山口県立下関高等学校と山口県立下関第二高等学校の2校が統合され、「山口県立下関西高等学校」となる。
通常制普通課程(全日制課程 普通科)、定時制普通課程(定時制課程 普通科)、通信教育部を設置。
1950年(昭和25年)4月1日 - 山口県立下関南高等学校を統合し「南校舎」とする。定時制(夜間部)、定時制黒井分校と定時制東部分校の2分校を設置。
1951年(昭和26年)3月31日 - 東部分校を山口県立下関東高等学校に移管。
1954年(昭和29年)4月1日 - 南校舎が分離し「山口県立下関南高等学校」として独立(再設置)。