凡例山口常成
時代安土桃山時代
生誕不明
死没慶長5年(1600年)
別名通称:飛騨
官位飛騨守
主君伊達輝宗→政宗
氏族支倉氏
山口 常成(やまぐち つねしげ)は、安土桃山時代の武将。伊達氏の家臣。支倉常長の父。 支倉氏
出自
父の常正は、伊達稙宗・晴宗二代に仕え、1,200石を保ち柴田郡支倉邑の支倉城に居住していた。この頃の文書には支倉殿と記載されていることから、支倉を称していたと考えられる。常正の次男の時正と三男の常成は、信夫郡山口邑の山口城で育ち山口姓を称していた。ところが、長男の常豊が早死したため次男の時正が支倉家を相続するようになって支倉時正(通称・紀伊)と称したという。 支倉常正
略歴
伊達輝宗・政宗に仕え、兄・時正と同じく武勇に優れ、多くの戦陣に参加し軍功を上げたという。天正7年(1579年)兄・時正が鍋丸事件(砂金氏との領地争い)を起こす。天正19年(1591年)、豊臣秀吉の奥州仕置により、黒川郡大森邑に所替となり、移住する。文禄元年(1592年)父・常正と共に葛西大崎一揆の御成敗代官に任ぜられ派遣される。文禄2年(1593年)子・常長は、文禄の役に鉄砲隊長として出陣する。文禄3年(1594年)数度、相馬軍との合戦に出陣する。
慶長4年(1599年)罪あって、閉門となる。一説には、鍋丸事件の責任を問われたという。慶長5年(1600年)に死罪を命ぜられ、この年、自刃したという説がある[要出典]。 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年3月) プロジェクト 日本の戦国時代
出典
樫山巌『支倉常長の謎』[要ページ番号]
伊達世臣家譜[要ページ番号]
伊達治家記録[要ページ番号]
宮城県姓氏家系大辞典
関連項目
更新日時:2021年3月3日(水)03:37
取得日時:2023/01/03 16:33