山口勇
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この項目では、俳優について説明しています。同姓同名のバスケットボール選手については「山口勇 (バスケットボール)」をご覧ください。

やまぐち いさむ
山口 勇
初春娘』(1940年) 中央が山口
左は逢初夢子、右は平井岐代子
本名同
生年月日 (1904-03-04) 1904年3月4日
没年月日1982年
出生地 日本 東京府東京市麻布区竹谷町(現在の東京都港区南麻布
職業俳優
ジャンル劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー
活動期間1931年 - 1964年
著名な家族小林信彦 (従甥)
主な作品
腰辨頑張れ
『旅寝の夢』
和製キング・コング
『噫薄情』
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山口 勇(やまぐち いさむ、1904年3月4日 - 1982年[1])は、日本の俳優である[2][3][4][5][6][7][8][9][10]。本名同じ[2]成瀬巳喜男の現存する最古の監督作『腰辨頑張れ』の主演俳優であり、戦後も東映京都撮影所の脇役俳優として知られる[2]
人物・来歴

1904年明治37年)3月4日東京府東京市麻布区麻生竹谷町(現在の東京都港区南麻布)に生まれる[2][3][7]小林信彦によれば、赤坂区青山(現在の港区青山1丁目付近)出身の小林の母は、山口の従姉妹にあたるといい、つまり山口からみて小林は従甥にあたる[11]

麻布区内の東京市立南山尋常小学校(現在の港区立南山小学校)を卒業し、旧制・高輪中学校(かつての第一仏教中学校、現在の高輪高等学校)に進学する[2]。2学年上にのちの俳優の江川宇礼雄がいた。同校を1922年(大正11年)に卒業し、明治大学法科に進学する[2]。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災を経て1924年(大正13年)には同学を中途退学し、父が当時経営していた無線通信器具の工場に勤務した[2][12]。その後、同工場を経営していた父が亡くなり、その経営を引き継いだ[2]。1929年(昭和4年)末の情報が記載されている『商工省編纂 全国工場通覧 昭和六年九月』(1931年)によれば、同工場は「山口電機工場」といい、所在地は山口の自宅と同一で、1909年(明治42年)5月に開業しており、同年末時点での同工場の代表は「山口勇」である[12]

満26歳になる1930年(昭和5年)3月、同工場の経営権を弟に譲り、松竹蒲田撮影所に入社、同年12月31日に公開された、石川和雄監督による鈴木傳明主演の正月映画『大学の顔役・ラクビー篇』で映画界にデビューした[2]。1931年(昭和6年)8月8日に公開された成瀬巳喜男監督の『腰辨頑張れ』で、初の主演を果たす[2][4]。同年9月には、当時の同社のスター俳優である鈴木傳明、岡田時彦高田稔渡辺篤らとともに同社を退社、彼らが設立した映画会社不二映画社に参加するが、1933年(昭和8年)3月には同社が解散、その後、さらに傳明や佐久間妙子らとともに、東京府北多摩郡調布町(現在の東京都調布市)に新設された日本映画(現在の角川大映撮影所)に移籍、中村能二が監督した『上海から来た女』に出演するが、同社がまもなく解散、同年5月には、松竹蒲田撮影所に復帰している[4]。同年、清水宏監督の『旅寝の夢』、斎藤寅次郎監督の『和製キング・コング』に主演する[2][4]。多く助演を重ねながら、翌1934年(昭和9年)には吉村公三郎監督の『ぬき足さし足』、1935年(昭和10年)には斎藤寅次郎監督のサウンド版『噫薄情』にも主演した[2][4]

同年3月には、松竹キネマのトーキー政策に不満を持った重宗務らが独立して東京発声映画製作所が発足、藤井貢大日方傳三井弘次らとともに松竹キネマを退社して、その設立に参加、同年8月25日に日活が配給して公開した、重宗監督による同社の第1作『乾杯! 学生諸君』に出演した[4]。1938年(昭和13年)3月には藤井らとともに同社を離れ、新興キネマに移籍、同社の東京撮影所(現在の東映東京撮影所)に所属して、現代劇に出演した[4]。1942年(昭和17年)1月27日、同社は日活の製作部門(撮影所)および大都映画等と合併して大映が成立した後は、同社に継続入社して、日活京都撮影所改め大映京都撮影所に所属した[4]

第二次世界大戦終結後は、大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)に所属したが、京都の松竹京都撮影所東横映画(現在の東映東京撮影所)の作品に多く出演するようになり、1951年(昭和26年)4月1日の東映設立以降は、東映京都撮影所に所属した[4]。満60歳を迎える1964年(昭和39年)までは、テレビ映画を含めた出演歴が確認でき[2][4][5][8]、その15年後、満75歳となった1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の山口の項には、存命人物として東京都豊島区南長崎の連絡先が示されているが、すでに引退しており、以降の消息は不明とされていた[2]が、2002年(平成14年)1月1日に発行された『日本映画スチール集 新興キネマ モダニズム篇』(ワイズ出版)によれば、後に芸能界を引退し、同上の連絡先で鰻屋を経営していたが、1982年(昭和57年)に死去したとされている[1]


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