元俳優の「山口健次」とは別人です。
山口 健二(やまぐち けんじ、1925年8月15日 - 1999年6月12日)は、日本の政治活動家、アナキスト、作家。日本社会党と日本共産党に双方に入党し、共産党では志田派として中核自衛隊にも参加したが、後に両党から除名された。 1925年横浜市に生まれる。横浜第二中学校卒業後、1942年東京美術学校油画科入学、1943年第一高等学校文科入学、1944年旅順高等学校入学。旅順高等学校での学生生活が関東軍指揮下であることに反発し、朝鮮人の友人三人とともに脱走し、満州、朝鮮半島を南下し、日本本土に戻る。戦時下には太宰治に私淑し、1942、3年頃太宰の自宅を訪問し面会。 長野県で終戦を迎え、第一次日本アナキスト連盟に参加。第一高等学校に入学。この頃、原口統三、清岡卓行、中村稔などと交流を持つ。1947年京都大学文学部倫理学科入学(後に中退)。京大生時代の1948年4月14日に京都市下京区で起きた京大女子学生殺人事件[1]に間接的に関わり、証人として裁判に出廷。三島由紀夫は、この事件に取材し、短篇小説「親切な機械」を発表。事件の影響で京都に居られなくなり、恋人の井上美奈子と共に横浜市に移る。アナ連の機関紙『平民新聞』の編集に携わる。1952、3年頃アナ連を離れた後、日本社会党と日本共産党に二重入党。共産党では志田派に所属し、中核自衛隊に参加。1952年から1956年に世界民主青年連盟の日本代表として東欧、ソ連を歴訪。ヨシフ・スターリンと何度か会う。1956年に社会党から、1959年には共産党からそれぞれ除名される。 60年安保時には三井三池争議支援を経て、谷川雁らの大正行動隊に参加。1961年後方の会を設立し、大正鉱業の炭坑争議を支援。この頃、榊原陽を谷川雁に紹介する[2]。
経歴
その後、東アジア反日武装戦線の救援活動や雑誌『新地平』、アジア・アフリカ作家会議などで活動。1988年アナ連再建と同時に運営委員に加わり、機関紙『自由意志』を復刊させ、ポーランドの革命運動に参加。