山内 静夫
やまのうち しずお
生誕1876年8月3日
日本、京都府
死没 (1961-06-06) 1961年6月6日(84歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1898 - 1932
最終階級 陸軍中将
除隊後満洲電信電話株式会社総裁
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山内 静夫(やまのうち しずお、1876年(明治9年)8月3日[1] ? 1961年(昭和36年)6月6日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。満洲電信電話株式会社総裁。旧名は岱亮[2]。 京都府に山内覚道の二男として生まれ、山内政銓の養子となった[2]。京都府立中学校を経て、1897年(明治30年)11月29日に陸軍士官学校(9期)を卒業し、1898年(明治31年)6月27日に工兵少尉に任ぜられ、同日付で近衛工兵大隊付に補される[3]。1900年(明治33年)11月21日に工兵中尉に昇進[4]後、陸軍砲工学校(9期)普通科を優等で卒業[5]し、同校高等科卒業後もさらに員外学生として在学した[6]。1904年(明治37年)3月24日に工兵大尉に昇進し陸軍士官学校教官に補せられた[7]後、1907年(明治40年)7月11日に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した[8]。その後、大本営野戦高等電信部副官、青島守備軍司令部附交通兵団副官を経て、1909年(明治42年)11月30日に工兵少佐に昇進[9]し、陸軍砲工学校教官を経て、1916年(大正5年)5月2日に工兵中佐に昇進[10]し交通兵団司令部御用掛を命ぜられ、参謀本部御用掛を経て、1918年(大正7年)11月1日に工兵大佐に昇進[11]。さらに、陸軍技術本部部員、陸軍省兵器局機材課長を経て、1923年(大正12年)8月6日、陸軍少将に昇進し陸地測量部長に就任[12]。その後、陸軍技術本部第二部長、築城部本部長を歴任し、1928年(昭和3年)3月8日、陸軍中将に昇進した[13]。1932年(昭和7年)8月8日、待命となり、同月30日予備役に編入された[14]。 その後、南満州鉄道株式会社顧問となる[2]。1933年(昭和8年)に満洲電信電話株式会社が設立されると取締役、ついで総裁に就任し、1937年(昭和12年)まで務めた[2]。 1961年、死去。
経歴
栄典
位階
1898年(明治31年)7月21日 - 正八位[15]
1901年(明治34年)2月28日 - 従七位[16]
1904年(明治37年)5月17日 - 正七位[17]
1909年(明治42年)7月10日 - 従六位[18]
1914年(大正3年)7月31日 - 正六位[19]
1918年(大正7年)12月20日 - 従五位[20]
1923年(大正12年)11月20日 - 正五位[21]
1928年(昭和3年)4月2日 - 従四位[22]
1932年(昭和7年)9月22日 - 正四位[23]
勲章等
1906年(明治39年)4月1日 - 功五級金鵄勲章・勲五等双光旭日章・明治三十七八年従軍記章[24]
1914年(大正3年)5月16日 - 勲四等瑞宝章[25]
1915年(大正4年)11月7日 - 功四級金鵄勲章・旭日小綬章・大正三四年従軍記章[26]
1919年(大正8年)4月30日 - 勲三等瑞宝章[27]
1920年(大正9年)11月1日 - 旭日中綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[28]
1927年(昭和2年)6月20日 - 勲二等瑞宝章[29]
1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[30]
外国勲章佩用允許
1926年(大正15年)8月24日 - 支那国:二等大綬嘉禾勲章[31]
親族
山内長人 - 妻の父[2]。陸軍中将。貴族院男爵議員。
脚注^ a b 日本陸軍将官辞典 2001.
^ a b c d e 人事興信録 1939.