山内克仁
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出典検索?: "山内溥" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2013年9月)

やまうち ひろし山内 溥
生誕山内 博
(1927-11-07) 1927年11月7日
京都府京都市
死没 (2013-09-19) 2013年9月19日(85歳没)
京都府京都市左京区
出身校早稲田大学専門部法律科[1]
職業実業家
取締役会任天堂元代表取締役社長
子供山内克仁
親山内鹿之丞(旧姓:稲葉)

山内 溥(やまうち ひろし、1927年11月7日 - 2013年9月19日)は、日本実業家。出生名は山内 博(読みは同じ)。

玩具メーカーの任天堂株式会社代表取締役社長(個人商店の山内房治郎商店より数えて第3代、1949年 - 2002年)、同社取締役相談役(2002年 - 2005年[2][3]を経て、晩年まで同社の相談役を担った。任天堂を電子ゲームによって世界的な企業に押し上げた中興の祖として活躍した。

また、アジア人初の大リーグチームのオーナーとして、シアトル・マリナーズの共同オーナーを務めた人物としても知られる。
経歴
幼少期

1927年、京都市に生まれる。溥は任天堂創業家の生まれであり、創業者・山内房治郎の曾孫に当たる。幼少時に父・山内鹿之丞(婿養子。旧姓:稲葉)が近所の女性と駆け落ちして失踪した後、祖父母に育てられることになったこと以外は恵まれた環境で育つ。
社長就任
22歳で社長就任
早稲田大学専門部法律科で学んでいた1947年花札トランプ製造会社の合名会社山内任天堂の販売子会社であった株式会社丸福(丸福かるた販売などを経て、現在の任天堂)の設立時に取締役に就任。跡継ぎとして育てられていた溥だったが、その2年後、1949年に祖父で二代目の山内積良が病気で倒れ、急遽祖父の後を継がざるを得なくなり、22歳で株式会社丸福かるた販売の代表取締役社長に就任。1950年大学卒業。溥が会社を継ぐにあたって、「任天堂で働く山内家の者は自分以外に必要ない」とする条件を提示したため、前社長は会社にいた山内家の従兄弟達を会社から退けていた。
アイデアマンとして業界トップへ
社内の労働争議が悪化する中、積極的に社内改革を図った。1955年に労働争議は一応の決着がついたものの、争議の激しさで体を壊しかけるなどした経験から父を激しく嫌い、後に父が面会しに来た際には、門前払いしたという。労働争議が収まる一因となったのは、山内のアイディアマンぶりである。1953年には日本初のプラスチック製トランプを開発、1959年にはディズニートランプを発売するなどし、任天堂の業績をかつてないほど上げたことにより、誰も社長に文句が言えなくなった。特にディズニートランプに関しては、「ディズニーキャラクターを絵柄に使う」「遊び方の簡単な説明書を同梱する」という全く新しい手法により、それ以前は博打の道具としてしか認識されていなかったトランプを子供向け・家庭の団欒のための玩具として再定義し、全く新しい層を新たに取り込んだことである。任天堂のトランプは爆発的に売れ、1960年代前半には一躍業界トップに躍り出る。
多角経営に失敗
1958年のアメリカ視察では、世界的に高いシェアを有するトランプ会社U.Sプレイング・カード社に向かったが、最大手であるにもかかわらずオフィスも工場も想像以上に小規模だったことに衝撃を受け、「トランプだけではちっぽけな会社で終わってしまう」と悟り、多角経営の道を探ることになる。親戚にタクシー会社の経営者がいたことから、1960年にタクシー会社のダイヤ交通株式会社[注 1]を設立したのを皮切りに、1961年には近江絹糸と共同出資で三近食品[4]を設立し、いずれも代表取締役社長に就任。その他にも任天堂本社でも他業種に進出したが、ノウハウ不足などによりことごとく失敗。更にトランプブームが一段落付いた1964年に任天堂は、一転倒産危機に直面することになる。山内は1965年に三近食品、1969年にダイヤ交通の経営から手を引いた。
玩具事業への舵切り
電子玩具のヒット
任天堂が苦境に陥っている最中、
1965年に入社した横井軍平が暇つぶしで作っていた遊び道具を1966年にウルトラハンドとして商品化させたところ大ヒットを記録。任天堂のオリジナル玩具1号となったこの製品は、10万個売れれば大成功といわれていた時代に120万個以上を売る大ヒットとなった。横井軍平を玩具商品開発の主任に据え、それ以降「電気・電子関係の技術」を使った目新しい玩具でヒットを出した。1968年の家庭用ピッチングマシン「ウルトラマシン」など、アイデア玩具を次々と開発し、1967年には17億円であった売上高が2年後には34億円にまで拡大した。その間、任天堂の売上の7割を占めていたカード類の割合は、わずか3割に減少していた。
アーケードゲーム事業への模索
デパートのおもちゃ売り場と得意の関係になったことなどから、1970年の光線銃SPのヒットを機に、山内は多角経営路線を諦めた。しかし、光線銃SPの発展版ともいえる「レーザークレー射撃場」という施設を全国各地に展開させようともくろみ、一時は軌道に乗り掛けたものの、運悪く第一次オイルショックが起き、その影響で建設計画撤回が相次ぎ、任天堂は多額の負債を背負い、再び倒産危機に直面することになる。しかし、山内はアーケードゲームに可能性を見出し、その路線を突き進むことになる。タイトースペースインベーダーの大ヒットにより、亜流のインベーダーゲームが氾濫していた際に、任天堂(任天堂レジャーシステム)は『スペースフィーバー』でこれに参戦。


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