五代目山健組
設立1961年
設立者山本健一
本部〒650-0013
日本・兵庫県神戸市中央区花隈町26-4(2022年4月19日、神戸市により固定資産税滞納で土地・建物共に差し押さえ。同年6月20日、神戸地裁により暴力団対策法に基づき使用差し止め。)
首領中田浩司
活動期間1961年 - 現在
構成員数
(推定)400?500[1]
上部団体 山口組
山健組(やまけんぐみ)は、兵庫県神戸市中央区に本部を置いていた暴力団で、特定抗争指定暴力団の(六代目)山口組の二次団体[2]。2015年の山口組分裂以降、神戸山口組の傘下組織として活動し、独立を経て2021年に山口組に復帰した。 警察当局の資料によれば構成員の総数は2005年頃に約4,000人[3]と推定され、本部直参は約78人、構成員・準構成員ともに約2,000人ずつの大勢力となっていた。一時は山口組において「ヤマケンにあらざれば、ヤマグチにあらず」と言われるほどの勢力を誇った。 2015年夏の山口組分裂以降、新団体・神戸山口組の中核[4]となったものの、2020年には五代目組長・中田浩司が半数以上の直参を率いて神戸山口組を脱退するなど混乱状態にある。 三代目山口組組長・田岡一雄の若衆である山本健一が1961年(昭和36年)に結成。愚連隊を源流としている[5]。1971年(昭和46年)に山口組若頭・梶原清晴が海難事故で急逝したため、次期若頭のポストを巡り互選が行われることになった。その際、候補となったのが山口組若頭補佐の2人、山本健一と山本広であり、投票の結果、山本広の票数が多かったものの、田岡から山本健一が指名された。 山本は1982年(昭和57年)2月、持病の悪化で死去。死後も山本の遺志が尊重され、山健組の出身者は山口組の主要ポストに起用されていった。 1982年(昭和57年)6月、健竜会会長・渡辺芳則が二代目山健組組長に就任した。1984年(昭和59年)に山口組が四代目体制に移行すると、渡辺は山口組若頭補佐に抜擢される。 1985年(昭和60年)1月、山口組組長・竹中正久と若頭・中山勝正が暗殺されると2月に編成された暫定執行部体制で若頭に就任する。直参昇格から2年半の間に山口組ナンバー2の座まで上ったことになる。 1997年(平成9年)、桑田が銃刀法違反容疑で逮捕され、2003年(平成15年)に懲役7年の実刑判決が確定すると、若頭の極心連合会会長・橋本弘文を組長代行に昇格させ、四代目健竜会会長・井上邦雄を後任若頭とする組織改編を行った。 2005年(平成17年)4月、橋本と相談役・太田守正 同年8月、司忍を首領に据えた六代目山口組が発足すると、桑田が引退し若頭・井上邦雄が四代目を継承、井上は山口組幹部(「幹部」という名称の役職)に就任した。11月には、舎弟頭の木村會会長・木村阪喜と舎弟頭補佐の大同会会長・森尾卯太郎が山口組直参へ昇格した。さらに12月には、井上が幹部から山口組若頭補佐兼阪神ブロック長に昇格・就任している。 六代目体制下にあっても山口組の最大派閥であり執行部メンバーも輩出しているが、組長の司忍と若頭の髙山清司がともに弘道会出身であり、山口組内では山健組以上に弘道会の影響力が増すようになった。 2015年(平成27年)8月27日、井上は宅見組組長・入江禎や池田組組長・池田孝志らとともに六代目山口組を離脱した。井上は離脱した十数団体を纏めて新団体神戸山口組を結成し、組長に就任した[6]。なお、同日付けで山口組執行部から絶縁処分を受けた[7][8]。 2017年(平成29年)4月30日、山健組副組長・織田絆誠が複数の直参とともに山健組を離脱し、新たに任侠団体山口組(現:絆會)を組織した[注 2][9]。井上は織田を含む離脱した直参全員に処分を下した。 2018年(平成30年)5月5日、五代目健竜会会長を務めていた中田浩司が山健組五代目を継承する[10]。この代目継承により井上が神戸山口組と山健組組長のトップを兼務する状態が解消された。 2019年(平成31年)4月18日、若頭・與則和が神戸市中央区の路上にて、六代目山口組系三代目弘道会傘下組員2人に刃物で刺される事件が発生する。実行犯の2人は事件後、出頭した[11]。 同年10月10日、山健組本部事務所前で組員2人が弘道会系組員に射殺される。実行役は、現場で殺人未遂容疑で逮捕された[12]。 同年12月3日、中田が銃刀法違反容疑で兵庫県警に逮捕される。これは同年8月、神戸市内の弘道会関連施設前で、弘道会系組員が銃撃される事件が発生しており、捜査の結果、この実行犯が中田であると発覚したためである。事件の背景には、同年4月に発生した與の刺傷事件があり、この報復として中田が自ら銃撃した可能性が濃厚となっている。 2020年(令和2年)7月16日、中田は山健組執行部に対し、神戸山口組から離脱することを指示する[13]。離脱の背景に、山健組の運営に関して井上と意見の相違があったとみられている。 しかし、中田本人が勾留中である上に弁護士以外の接見が不可能となっており[13][14]、意思疎通の面で問題が生じたために離脱に関して幹部らの間で幾度と協議が重ねられた。翌月の8月には、意向に従わず神戸山口組に残留する直参らに対して絶縁や破門、除籍などの処分が下され[14][15]、山健組は半々の勢力に分割。分裂が確定的となった[16]。 なお、同年9月10日になり、中田は神戸山口組から除籍処分を受けた[16]。 2021年(令和3年)9月16日、中田率いる五代目山健組が、六代目山口組に移籍したことが明らかになったが[17][18]、依然として神戸山口組にも残留勢力が活動している。 氏名在任期間備考
概要
来歴
二代目体制(1982-1989)
なお、後に二代目弘道会会長・髙山清司が直参昇格[注 1]からわずか3ヶ月で若頭に就任し、この記録を破っている。
三代目体制(1989-2005)ら幹部10人が山口組直参へ昇格した。1990年(平成2年)には桑田と中野が山口組若頭補佐に就任して山健組の勢力を磐石なものにし、山口組内の最大派閥へと押し上げた。
四代目体制(2005-2018)
神戸山口組発足以降
五代目体制(2018-)
独立以降
歴代組長
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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