山九株式会社
SANKYU INC.
本社ビル
本店
種類株式会社
市場情報東証プライム 9065
山九株式会社(さんきゅう、英: SANKYU INC.)は、本店を福岡県北九州市門司区に、本社を東京都中央区勝どきに置く、大手総合物流企業。JPX日経インデックス400構成銘柄の一つ。従業員数は単体で約1万2千人、連結で約3万人となっている。 一般港湾運送事業、貨物自動車運送事業だけでなく、国際物流事業、倉庫事業、機工事業など幅広い物流サービスを提供している。また、日本製鉄、JFEホールディングス、神戸製鋼所、三井化学、住友化学、川崎重工業、三菱重工業、AGC、プロクター・アンド・ギャンブル・ジャパン等が大荷主であり、梱包や在庫管理といったロジスティクス事業だけでなく、プラントエンジニアリング事業としてプラント建設や据え付け、メンテナンス、改修や解体までを手掛けている点も特徴の一つである。重量物輸送・据付の分野に関してはパイオニアである。自社でも内航コンテナ船を運航している。また、日本通運、日新と共に「中国物流御三家」と呼ばれている。グループ年間売上高で国内陸運業界第9位。従業員数は山九グループ全体で30,000人越えとなっており国内トップクラスの大企業である。 中村汽船(1969年に日本郵船の傘下となる)が、当時八幡や徳山といった九州地方と山陽地方を基盤として事業を行っていた磯部組を買収した際、それぞれの地方名の頭文字と中村精七郎のロンドンでの体験に基づく[1]感謝の気持ちとしての英発音「サンキュー(Thank You)」とを掛け合わせて、磯部組の社名を山九運輸機工株式会社とした事に由来する。なお、コーポレートスローガンは「ありがとうの気持ちが会社の名前です」である。 平戸出身の中村精七郎[2](なかむら せいしちろう、1872年 - 1948年)が創業した中村組(1905年設立)傘下に、1918年10月に磯部組を買収して設立された山九運輸株式会社が起源である。
概要
社名の由来
略歴
1918年10月 - 中村精七郎が山九運輸株式会社を設立。
1947年6月 - 社名を山九産業運輸株式会社に変更。
1951年11月 - 社名を山九運輸株式会社に復元改称。
1959年7月 - 社名を山九運輸機工株式会社に変更。
1962年3月 - 東京証券取引所の第二部に上場。
1962年5月 - 福岡証券取引所に上場。
1966年8月 - 東京証券取引所第一部に上場。
1980年10月 - 社名を現在の山九株式会社に変更。
1990年2月 - 岡崎工業株式会社(東証一部)を吸収合併。
1998年4月 - 本社を三田国際ビルより、中央区勝どきの山九ビルに移転。
2000年1月 - 西濃運輸株式会社と業務提携。
2001年4月 - 郵政事業庁と業務提携。
2004年12月 - 日本郵政公社と国際小口物流サービス「SANKYUビジネスゆうパック」開始。
2018年10月 - 創立100周年を迎える。
沿革山九本店にある説明板
創業当初
創業当時の事業内容は、朝鮮半島や満州、山東省からの鉄鉱石・石炭の陸揚げや無煙炭輸送などの輸送事業で、創業当初から海外で事業(第二次世界大戦までに15か所の海外拠点を所有)を行っていた。
官営八幡製鉄所や徳山海軍、光海軍、四日市海軍等の燃料所における構内作業。
その他、北九州での連絡渡船業や土木建設等多岐にわたっていた。
大正?昭和戦前時代
1942年に就任した二代目社長中村勇一(初代社長の長男)は、戦時統制経済の中、当時親会社であった中村汽船の事業縮小を徹底的に行った。
昭和戦後時代
戦後になると後の基幹事業である陸上トラック作業や港湾作業、重量物・大型貨物の輸送、産業機械の解体・梱包、据付、通関・通運等へ進出を行う。
ただし山九とは対照的に親会社の中村汽船は、ドッジラインの実施によるドッジ不況や1949年のキティ台風による艀(はしけ)32隻の大中破(横浜)により、さらなる事業縮小を余儀なくされる。
昭和中期時代
1959年に先代社長の急逝により就任した三代目社長中村健治(初代社長の次男)は、運輸と機工のバランス発展に力を入れる。
石油コンビナートが建設されるようになると、それに伴う重量、大容量機器の据え付けや保全作業の拡大に注力する。既存の製鉄所作業の拡大にも尽力する。
またこのころ、それまで九州に置いていた本社機能を東京へ移管(1961年)する。
昭和後期時代
1973年に就任した四代目社長中村公三(初代社長の三男)は、海外事業(中国、インドネシア、タイ、ベトナム、ブラジル等)の現地法人化の推進や一貫責任体制の確立を行っていく。
1982年にはその後2006年まで続く引越事業を開始する。この引越事業の開始により、それまで法人向けサービスを主としていたゆえの低い知名度が、テレビCM等の広告戦略により向上していくことになる。
1986年、親会社である中村汽船が倒産。その際の負債総額595億円を全額負担することになり、市場からもこれ以上の経営継続は不可能だと考えられていた。
1986年に就任した五代目社長中村公一(先代中村公三の長男)は、再建計画の一環として岡崎工業との合併を模索する一方で、中国や東南アジアに次々と現地法人を設立していく。
平成時代
中村汽船の負債が落ち着くまもなく、2001年3月期から財務諸表に記載が義務づけられた退職給付債務と年金資産等との差額が、それまで積み立てていた退職給付引当金ではあまりに少なかったため、さらに負債が拡大した(2000年3月期データで有利子負債が1,601億円までふくらんだ)。