山中貞雄
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やまなか さだお
山中 貞雄
1934年
本名同じ
別名義社堂 沙汰夫(しゃどう さだお)
阿古 三之助(あこ さんのすけ)
梶原 金八(かじわら きんぱち、鳴滝組の共同ペンネーム)
生年月日 (1909-11-08) 1909年11月8日
没年月日 (1938-09-17) 1938年9月17日(28歳没)
出生地 日本京都府京都市下京区
死没地 中華民国河南省開封市
職業映画監督脚本家
ジャンル映画
活動期間1928年 - 1937年
著名な家族甥:加藤泰(映画監督)
主な作品
磯の源太 抱寝の長脇差』(1932年)
盤嶽の一生』(1933年)
丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)
街の入墨者』(1935年)
河内山宗俊』(1936年)
人情紙風船』(1937年)
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山中 貞雄(やまなか さだお、1909年11月8日 - 1938年9月17日)は、日本映画監督脚本家である。サイレント映画からトーキーへの移行期にあたる1930年代の日本映画を代表する監督のひとりであり、28歳の若さで亡くなった天才監督として知られる[1][2]。わずか5年間の監督キャリアで26本の時代劇映画(共同監督作品を含む)を発表したが、今日までフィルムがまとまった形で現存する作品は『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)、『河内山宗俊』(1936年)、『人情紙風船』(1937年)の3本しかない。

1928年に時代劇スターの嵐寛寿郎主演作品のシナリオライターとしてキャリアを始め、1932年に22歳の若さで『磯の源太 抱寝の長脇差』で監督デビューし、一躍批評家の注目を浴びた。その後『小判しぐれ』(1932年)、『盤嶽の一生』(1933年)、『風流活人剣』(1934年)、『国定忠次』『街の入墨者』(1935年)などを監督し、多くの作品が批評家に高く評価された。サイレント時代は字幕と画面の組み合せによる独特の映画話術を確立し、トーキー時代は時代劇に現代劇の感覚やスタイルを採り入れた「髷をつけた現代劇(時代劇の小市民映画)」と呼ばれる作品を手がけた。また、小津安二郎をはじめとする多くの映画人と盛んに交流し、1934年には親交を結んだ京都市鳴滝在住の映画人とシナリオ執筆集団「鳴滝組」を結成し、梶原金八の共同ペンネームで20本近くの時代劇映画のシナリオを執筆した。1937年の『人情紙風船』完成直後に日中戦争に召集され、翌1938年中国開封市戦病死した。
生涯
生い立ち

1909年11月8日京都市下京区高倉通松原下ル樋之下町37番地に、父・山中喜三右衛門と母・ヨソの6男1女の末子として生まれた[3][4]。兄姉は長男・作次郎、次男・市太郎、長女・トモ、三男・喜三郎、四男・定次郎、五男・喜与蔵(清弘)である[4][5][注 1]。山中家は宝暦年間から若狭屋を名乗って質屋を営んだが、祖父の5代目作次郎(長男は代々作次郎を名乗った[4])の代には京都の土佐藩邸の掛屋を勤め、前藩主の山内容堂の御用使も命じられた[6]。喜三右衛門も少年時代に小姓として土佐藩邸に出仕し、容堂に英語や酒のイロハを指南されるなどして可愛がられたが、明治維新後は家業を継がず、扇子の製造販売を行う「山中白扇堂」を立ち上げ、貝を骨に貼り付けた螺鈿の扇子を海外に輸出して成功した[6][7]。喜三右衛門は40代になると早々と隠居し、長男が7代目作次郎として家業を継ぎ、作次郎が幼い貞雄の父親代わりとなって面倒を見た[5][8]。また、長女のトモは加藤家に嫁ぎ、息子で映画監督の加藤泰を生んだ[4]

1916年4月、山中は京都市立貞教尋常小学校に入学した[3]。この頃の山中は、休みに兄弟たちと新京極で芝居や映画を見物したり、近所の豊国神社の裏で連続活劇の真似をして遊んだりしていた[7][9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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