山中正竹
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山中 正竹基本情報
国籍
日本
出身地大分県
生年月日 (1947-04-24) 1947年4月24日(77歳)
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


大分県立佐伯鶴城高等学校

法政大学

住友金属

監督歴


住友金属

法政大学

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2016年
得票率85.7%(14票中12票)
選出方法特別表彰
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山中 正竹(やまなか まさたけ、1947年4月24日 - )は、20世紀後半に活躍した社会人野球の選手(投手)、監督

1992年のバルセロナオリンピック野球日本代表監督を務め、銅メダルに導いた。
来歴・人物

大分県生まれ。大分県立佐伯鶴城高等学校ではエースとして活躍。1963年秋季九州大会は準決勝で高田高に敗退。1964年夏の甲子園予選中九州大会では決勝に進み、八代東高池田純一らと投げ合うが、8回に逆転され甲子園出場を逸する。同年の秋季九州大会でも準々決勝に進むが、高鍋高牧憲二郎に完封を喫した。翌1965年春季九州大会では決勝で小倉高安田猛に投げ勝ち優勝を飾る。しかし同年夏は県予選準決勝でまたも高田高に敗れ、甲子園には届かなかった。

法政大学経済学部に進学。1年次よりエースピッチャーとして活躍し、一年先輩の田淵幸一捕手山本浩司外野手富田勝三塁手ら「法政三羽ガラス」と共に、東京六大学野球リーグにおける法大の黄金時代を形成する大きな原動力となった。在学4年間で残した通算48勝は、リーグ最多勝記録である。東京六大学野球リーグでは在学中3度優勝。1968年全日本大学野球選手権大会でも、決勝でエース野村収を擁する駒大を降し優勝。1969年第8回アジア野球選手権大会日本代表。リーグ通算80試合登板、48勝13敗、防御率1.86、230奪三振、ベストナイン2回。大学同期に江本孟紀投手、黒田正宏捕手、山田克己遊撃手堀井和人左翼手らがいた。

大学卒業後は住友金属工業に入社し、野球部の中心選手として活躍。1970年から1976年まで7年連続で都市対抗野球大会に出場する。1970年の大会ではルーキーながら4試合に登板。チームも準決勝に進むが、安田猛を擁する大昭和製紙に大敗[1]1971年大会には新日鐵広畑の補強選手として出場。全試合に先発して4勝をあげ決勝に進出、丸善石油を降しチームの優勝に貢献した[1]。この時のチームメートに佐々木恭介一塁手三沢淳投手がいる。同年の第9回アジア野球選手権大会日本代表にも選出された。1972年大会でも住友金属のエースとして準決勝に進出[1]、その後も社会人野球を代表する選手として活躍し、その名を轟かせた。

1976年に現役を引退し、1981年から住友金属の監督に就任。1982年には第53回都市対抗野球大会に優勝、1983年1984年と2年連続で社会人野球日本選手権大会優勝を飾った。


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