山中幸盛
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 凡例山中 幸盛
落合芳幾『太平記英勇伝 三十六 山中鹿之助幸盛』(東京都立図書館所蔵)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文14年8月15日1545年9月20日)?
死没天正6年7月17日1578年8月20日)?
改名山中甚次郎、亀井甚次郎、山中鹿介幸盛
別名鹿介[注釈 1]、鹿之介、鹿之助、鹿助[注釈 2](通称)
山陰の麒麟児(渾名)
戒名幸盛寺殿潤淋淨了居士
幸盛寺殿潤林淨了居士
幸盛院殿鹿山中的大居士
幸盛院殿大誉淨了大居士
秋峰億勇居士(鴻池家系図)
幸盛院鹿山的中居士
忠光院信譽宗英居士(久徳寺過去帳)
墓所阿井の渡し、観泉寺、幸盛寺、本満寺玉林院金戒光明寺、徳雲寺、静観寺
主君尼子義久勝久
氏族山中氏(出雲源氏尼子氏流、または橘姓近江山中氏庶流)
父母父:山中満幸、母:なみ(立原綱重の娘)
養父:亀井秀綱
兄弟幸高、幸盛、女(飯田定正の正室)
正室:亀井秀綱の娘
幸元、幸範、吉和義兼
養女:亀井茲矩
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山中 幸盛(やまなか ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方武将尼子氏家臣通称は鹿介(しかのすけ)[注釈 1]。巷間では山中鹿介の名でよく知られる。幼名は甚次郎[注釈 3](じんじろう)。尼子三傑の1人。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。

尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦[注釈 4]を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。
生涯
出自・若き日

幸盛の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。通説によれば、天文14年8月15日(1545年9月20日)に出雲国富田庄(現在の島根県安来市(旧能義郡広瀬町))に生まれたとされる(詳しくは#出自の謎を参照。)。

山中氏の家系も不明な点が多い。山中家の系図はいくつか存在するが[注釈 5]、有力な説としては宇多源氏の流れを汲む佐々木氏京極氏)の支流で、尼子氏の一門衆である。尼子清定の弟である山中幸久を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。

山中家は尼子氏の家老[注釈 6]であったが、父・満幸が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた[5]。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち[6]、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手柄を立てた[7]

16歳のとき、主君・尼子義久伯耆尾高城攻めに随行し、因伯(因幡国伯耆国。現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った[7]

幸盛は次男であったため、尼子氏の重臣である亀井氏の養子となるが[注釈 7]、後に山中家に戻り当主である兄の幸高(甚太郎)に替わって家督を継いだ。
尼子氏の滅亡

永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲国へ進軍する[9]。毛利氏は去る天文4年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢厳島の戦いで破ると[10]弘治3年(1557年)には大内氏を滅ぼし[11]、防長(周防国長門国)を新たに支配していた。また、永禄5年6月には石見国を勢力下に治め[12]中国地方の一大勢力となっていた。一方の尼子氏は、当主であった尼子晴久が永禄3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため[13]、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等[注釈 8]もあり勢力が衰えつつあった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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