山中光茂
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日本政治家山中 光茂やまなか みつしげ
生年月日 (1976-01-15) 1976年1月15日(48歳)
出生地三重県松阪市大黒田町西林
出身校慶應義塾大学法学部
群馬大学医学部
前職松阪市長
所属政党(民主党→)
無所属
称号学士(慶應義塾大学、群馬大学)
医師2003年平成15年)登録)
松阪市長
当選回数2回
在任期間2009年2月6日 - 2015年9月30日
三重県議会議員
選挙区松阪市選挙区
当選回数1回
在任期間2007年4月30日 -
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山中 光茂(やまなかみつしげ、1976年昭和51年)1月15日[1] - )は、日本政治家医師、作家。

三重県松阪市長(2期)、三重県議会議員(1期)を務めた。医療法人社団 しろひげファミリー理事長 しろひげ在宅診療所院長

代表作に「小説 しろひげ在宅診療所」「巻き込み型リーダーの改革」「たかが内閣の閣議決定ごときで」
経歴

三重県松阪市生まれ。松阪市立松江小学校、私立三重中学校・高等学校慶應義塾大学法学部法律学科卒業。1998年平成10年)4月、群馬大学医学部学士入学し卒業、2003年(平成15年)3月、医師免許を取得[2]

学生時代には、歌舞伎町での名物スカウトとして約5年間家族に仕送りを送りながら、当時の外務一種公務員試験に合格する。ただ、外務省に入らず、途上国医療に関わりたいという思いから群馬大学医学部に入学。松下政経塾の出身であり、2004年(平成16年)からは「NPO法人少年ケニアの友」の医療担当専門員となり、ケニアにおけるエイズプロジェクトを立ち上げなどに関わる。その後、民主党の三重県総支部連合や伊藤忠治衆議院議員事務所の研修生を行った後、衆議院議員の政策秘書を務めた。2007年(平成19年)には三重県議会議員に立候補し、当選を果たした。

2009年(平成21年)の松阪市長選挙に連合三重の推薦と地元出身衆議院議員らや県議・市議らの支援を受けた現職[3]に対して対峙し、渡辺喜美の支援を受けて[4][5]無所属@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}市民派[要検証ノート]として当選する。相手候補に対し、自民党の石破茂、民主党の岡田克也など、政党幹部が繰り返し応援に入ったが[要出典]、市民による草の根選挙により[要検証ノート]、前任者である下村猛をおよそ8,000票の差で破り、当選時点で大阪府箕面市第15代市長を務めていた34歳の倉田哲郎を抜き、当時全国最年少の市長となった[6]

当選後、市民の声を政策の基軸とする「シンポジウムシステム」や「住民協議会制度」の導入など、「市民主権」のまちづくりを率先して行い、スイスジュネーブで行われる世界市長会議や中国無錫市で行われる国際フォーラムなどに日本代表として招かれるなど世界的な評価をうける[要検証ノート]。第5回マニフェスト大賞において、市民主体の政策形成について高い評価によりマニフェスト大賞グランプリを受賞する。アエラにて、小泉進次郎とともに「将来の日本を担う100人」に選ばれる[要検証ノート]ほか、各種雑誌やメディアなどで特集を組まれる[疑問点ノート]。ビートたけしのテレビタックル、激論コロシアム、報道2001、報道ステーションなど多数テレビ番組にも出演[疑問点ノート]。

2013年(平成25年)1月27日にまた渡辺喜美らの応援を受けて[7][8]、自民、民主、公明などの相乗り候補を破って、選挙運動も行わない、選挙により、市民に絶大なる支援をうけ大差で[要検証ノート]再選されて2期目をつとめた。市立松阪図書館の改修計画を巡って市議会と対立し、関連予算が議会で否決されるなどしたことから、2014年12月以降繰り返し辞職を表明した[9][10][11][12]。その後、支持者団体から松阪市議会リコール運動が起こされたために、推移を見守っていたが、同年8月に市議会リコール請求の有効署名が法定数に満たなかったことが確定したことを受けて、8月13日に辞職願を市議会議長に提出し、記者会見で「政治の世界から身を引く」と政界引退も表明した[13]

現在は、東京江戸川区のしろひげ在宅診療所において、院長として「在宅医療」の普及に尽力をしている[14]
市長就任後

松阪市長当選後の2009年(平成21年)2月6日には市長として松阪市役所に初登庁し「ここからの行動が市民の生活に影響するという重みを感じる。いすの座り心地に慣れてしまわないよう、現場に飛び込みたい」という抱負を述べた[15]

市長当選以降は渡辺喜美が発足させた国民運動体に中心メンバー15人のうちの1人として参加し[16]、また第22回参議院議員通常選挙三重県選挙区で民主現職の芝博一の対抗馬として中高時代の同級生であった元医師の矢原由佳子をみんなの党から擁立する等[17]、渡辺との関係を維持する一方、後述する松阪牛商標権問題や子ども手当問題に絡み、出身政党である民主党政権に対する批判を強めている。

前下村市長時代に裁判となっていた、駅西再開発問題をはじめ、保育園の民営化問題、風車事業、市民病院や競輪事業の再生などにおいて「シンポジウムシステム」として、市民とともに議論をしながら政策形成するシステムをすくり、マニフェスト大賞グランプリを得たり、アエラの次世代を担う100人に選ばれるなどの市内外での評価を受ける[要出典]。住民協議会システムを創り、地域における「自立したまちづくり」支援システムを構築し、全国から松阪モデルとして住民協議会システムのひろがりのきっかけとなる。
主な活動

「しがらみのない政治」を打ち出し[
疑問点ノート]、「市民が役割と責任を持つ地域づくり」を市長自らが主導。市民から絶大なる人気を持ち続け[疑問点ノート]、世界市長会議代表[疑問点ノート]、マニフェスト大賞グランプリなど数々の実績を残している。選挙に置いても常に全ての政党や各種団体を相手にまわし[疑問点ノート]、一切各種団体などからの支援を受けずに[疑問点ノート]圧勝を繰り返した[疑問点ノート]。

「住民参加型のシンポジウムシステム」「地域づくりの住民協議会システム」は多くの自治体からモデルケースとして評価をされて受け継がれている。


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