山下肇
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山下 肇(やました はじめ、1920年5月2日 - 2008年10月6日)は、ドイツ文学者東京大学教養学部名誉教授目次

1 人物

2 親族

3 著書

4 共編共著

5 翻訳

6 脚注

人物

東京都目黒区下目黒生まれ。幼い頃時習学館で戸田城聖の教えを受ける[1]府立高等学校在学中、学生歌「青春という」を作詞。1942年東京帝国大学独文科を繰り上げ卒業、陸軍に入隊し出征。

第二次世界大戦後に軍隊から復員し、旧制浦和高等学校教授ののち、1950年東京大学教養学部ドイツ語助教授、のち教授、1969年から評議員、1971年?1972年教養学部長。1981年定年退官、名誉教授。関西大学教授、1959年日本戦没学生記念会(わだつみ会)事務局長を務め、『きけわだつみの声』を復刊させる。同会顧問、大学生協東京事業連合理事長も務め、死去まで「わだつみのこえ記念館」館長。2008年、虚血性心不全のため88歳で死去。

ユダヤ神秘主義研究、ゲーテヘッセカフカなどドイツ文学の翻訳のほか、1955年『大学の青春・駒場』ほか多数の教養主義に裏打ちされた著書がある。1982年エルンスト・ブロッホ『希望の原理』の翻訳で日本翻訳文化賞受賞。叙勲は固辞し続けた。
親族

息子の山下萬里もドイツ文学者で拓殖大学教授。

6歳下の次弟の三郎は、泉三太郎の筆名でロシア文学を翻訳[2]。8歳下の末弟の大四郎は三角寛の婿養子となり、三浦大四郎の名で映画館経営者や演劇プロデューサーとして活動した[2]

父方は埼玉県川越の旧家で、日興証券創業者の遠山元一の親類にあたる[2]。肇の父方の大叔父である山下経治が遠山元一の妹の静子と結婚している。

母方をとおして、幕末の豪商として知られる「伊勢八」の七代目・加太八兵衛の出た「加太(かぶと)家」の子孫であり、同じく加太家の子孫である評論家加太こうじと、その縁で共著『ふたりの昭和史』を出している[2]。加太こうじは、肇の母方の祖母の祖父である加太八兵衛孝成(孝成は六代目八兵衛であり、弟が七代目八兵衛)の弟の加太民之助の曾孫にあたる[3]。江戸に出ず、伊勢に残った加太家の子孫が、明治の官僚・政治家の加太邦憲[4]

母の次兄の(ひかる)は星亨の養嗣子となり[2]小田原電鉄監査役を務めた。
著書

「カフカの世界 実存のロマネスク」
早川書房 、1953

「駒場 大学の青春」 光文社 、1956 カッパ・ブックス

「青春の広場に立ちて」 社会思想研究会出版部・現代教養文庫、1956

「詩人の運命」 パトリア、1957

「現代学生論」 平凡社、1957

「火を囲んで 現代学生手帖」 ダヴィッド社、1957

「学生の生き方 歴史と現実、思想と行動」 青春出版社、1958

「誰もが言わねばならぬ」 室町パブリシティー、1960

「現代の教養」 青春出版社、1960

「あすの女性へのことば」 有信堂、1960

「学生はどこへいく 大学と大学生」 文藝春秋新社、1961

「詩心旅情」 大和書房、1964

「若き燃焼のために」 番町書房、1965

「カフカ 現代の証人」 朝日出版社、1971


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