山下泰裕
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バスケットボール選手の「山下泰弘」、建築家の「山下保博」、あるいは「山下保博 (地方公務員)」とは別人です。

山下泰裕

山下泰裕(2005年)
基本情報
ラテン文字Yasuhiro Yamashita
日本
出生地熊本県上益城郡矢部町(現 山都町
生年月日 (1957-06-01) 1957年6月1日(66歳)
身長180 cm
体重128 kg
選手情報
段位九段
引退1985年

獲得メダル

柔道
オリンピック
1984 ロサンゼルス男子無差別級
世界選手権
1979 パリ男子95 kg超級
1981 マーストリヒト男子95 kg超級
金1981 マーストリヒト男子無差別級
1983 モスクワ男子95 kg超級


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山下泰裕
生誕 (1957-06-01) 1957年6月1日(66歳)
熊本県上益城郡矢部町(現 山都町
研究分野スポーツ科学
研究機関東海大学大学院
出身校東海大学体育学部
東海大学大学院体育学研究科
プロジェクト:人物伝
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山下 泰裕(やました やすひろ、1957年昭和32年)6月1日 - )は、日本柔道家体育学者学位体育学修士東海大学大学院1983年[1]日本オリンピック委員会(JOC)会長[2]。東海大学体育学部武道学科 教授(1996年 -)、体育学部 学部長(2009年4月 - )、副学長(スポーツ・一貫教育担当)(2011年10月 - )。

「日本柔道界最強の男」と称された実力者であった[3]
人物

熊本県上益城郡矢部町(現 山都町)出身。東海大学柔道部監督。柔道指導員、日本オリンピック委員会 (JOC) 会長、全日本柔道連盟名誉会長、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会副会長、日本オリンピアンズ協会理事。

過去に、全日本柔道男子強化ヘッドコーチ(1992年 - 2000年)、男子強化部長(2000年 - 2004年)、強化副委員長(2004年 - 2008年)、理事・副会長・強化委員長(2013年 - 2017年)、国際柔道連盟教育コーチング理事(2003年 - 2007年)、神奈川県体育協会会長、朝日新聞社嘱託社員(1986年 - 2017年)などを歴任。

引退から逆算して203連勝(引き分け含む)、また対外国人選手には生涯無敗(116勝無敗3引き分け)という大記録を打ち立てた。1985年6月17日引退。血液型はA型[要出典]。現役時代にフェアプレー賞、国民栄誉賞を受賞。
来歴
中学まで

熊本県上益城郡矢部町で生まれる。実家は魚屋だった[4]。幼少期虚弱だったことから、祖父・鯛蔵からスパルタ教育を受ける。しかし保育園入園頃には既に体格が大きく、4歳時点で身長122 cmもあり体重も20 kgを超え、わんぱく少年として喧嘩やいたずらに明け暮れるようになった。小学校低学年の頃にはあまりの腕白ぶりに同級生から「(泰裕がいるから)学校に行きたくない」と苦情が出る程で母親は度々近所等に頭を下げて回っていたという。一方で腕白ながらも成績は良かったという[5]。小学校3年の1月に藤壺道場に入門し、柔道を始めた[6]

小学校4年生のときに柔道をはじめ[7]、小学校6年生の時には熊本県の柔道大会で優勝し、名門・熊本市立藤園中学校に入学[4]。中学1年次には既に体重が100 kg近かった[4]。中学時代は監督の白石礼介の厳しい指導の下、組み手を左自然体に変えて、基本に忠実な柔道に取り組んだことでさらに力を付けた[注釈 1]全国中学校柔道大会の団体戦には2年3年と出場して、ともにオール一本勝ちで藤園中学の優勝に大きく貢献し、「怪童出現」と一躍注目された。

なお、中学2年の時に「将来の夢」という作文を書き、その中で「オリンピックに出場して、メインポールに日の丸を掲げながら『君が代』を聞きたい。そして柔道の素晴らしさを世界の人々に広げられるような仕事をしたい」と書いていた。
高校時代

高校進学に当たり東京の強豪校から多くのスカウトを受けるが、「東京へ出るのは大学からでいい」と考えていた山下は、恩師の白石が新たに柔道部監督を務めることになった九州学院高等学校に進学する[6][8]金鷲旗の準決勝では嘉穂高校2年生の吉岡剛に判定負けして、同校チームは3位にとどまったものの、インターハイ重量級において、同大会史上初の1年生優勝を果たした。2年生の時には7月の金鷲旗で10戦全勝してチームを優勝に導いたものの、続く8月のインターハイの準決勝では、その年の全日本選手権に高校生ながら出場を果たして注目された岐阜県立関高校3年生の松井勲と対し、判定負けして3位に終わる[注釈 2]。もはや熊本には練習相手がおらず、自身の実力が伸び悩んでいるのを実感していた山下は、松井や吉岡の成長を見るにつけ現状に不安を覚えたことや、祖父の奨めなどもあり、2学期からは前年より勧誘のあった神奈川県東海大相模高校に転校することとなった[6][注釈 3][注釈 4]

転校後、この年の全日本選手権で優勝した東海大学教員の佐藤宣践とその家族に公私両面で世話になり、稽古はほとんど東海大学で付けることによって[注釈 5]、さらなる成長を果たした。また、転校後間もない9月には、附属高校の生徒でありながら東海大学のヨーロッパ遠征メンバーの一員として加わり、現地での試合では13戦全勝を記録。11月にはドイツとの親善試合にも出場して全勝した。当時の様子を佐藤は「日に日に強くなっていくようだった」と呆れ口調で語り、山下も「熊本から単身出てきたが、悲しくも淋しくもない。毎日が充実していて、気持ちが前向きだった」と振り返る[6]。高校3年になる直前の3月には全日本選手権の関東予選に出場して、神奈川県警の諸井三義に内股で一本負けするものの、高校生ながら出場権を得た。

17歳で出場した1975年の全日本選手権では準決勝まで進出した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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