株式会社商船三井
Mitsui O.S.K. Lines, Ltd.
商船三井本社(虎ノ門ダイビル)
種類株式会社
機関設計監査役会設置会社[1]
市場情報東証プライム 9104
株式会社商船三井(しょうせんみつい、Mitsui O.S.K. Lines, Ltd.)は、東京都港区虎ノ門に本店を置く、三井グループの大手海運会社である。東証プライム上場。略称はMOL(エム・オー・エル)。日経平均株価の構成銘柄の一つ[3]。 日本郵船・川崎汽船と並ぶ日本の三大海運会社の1社、連結純利益、連結売上高および時価総額で国内2位である。LNG輸送および海洋事業の分野に強みを持つ。 1964年、進藤孝二社長時代、三井船舶と大阪商船が合併し、大阪商船三井船舶(略称・商船三井)が発足した(英文社名のO.S.KはOsaka Shosen Kaishaに由来する)。 1999年、生田正治社長時代、ナビックスラインと合併、「商船三井」を正式社名とする。2017年時点では三井グループと三和グループに重複加盟していた[4][注 1]。アリゲーターマーク 海上コンテナに記される「アリゲーター」印は柳原良平のデザインである。ファンネルマーク(煙突の印)はなく、煙突は橙一色となっている。
概要
沿革大阪商船たこま丸(大阪商船)天竜丸(大阪商船)
明治
1878年(明治11年)- 三井物産が鉄製蒸気船「秀吉丸」で三池炭の海外輸送(口之津-上海間)を開始。
1884年(明治17年)5月 - 瀬戸内航路を主として運航する60余りの船問屋を統合して、大阪商船を設立。
1903年(明治36年)4月29日 - 三井物産が船舶部を門司に設置(三井船舶の前身)[5]。
1907年(明治40年)3月 - 大阪商船、日本郵船、湖南汽船、大東汽船が合弁で、上海に日清汽船を設立。
1909年(明治42年) - 辰馬汽船合資会社を設立(1916年に辰馬汽船株式会社に改組、のち新日本汽船)[6]。
1912年(明治45年)5月 - 大阪商船、観光開発を目的とした1,000トン級のドイツ製客船「紅丸」(くれないまる)が、大阪と別府温泉を結ぶ航路に就航。
1923年(大正12年) - 大阪商船、広島‐別府航路を開設(のちの旧・広別汽船)。
1939年(昭和14年) - 大阪商船、「あるぜんちな丸」「ぶら志゛る丸」を建造。両船は貨客船として南米航路に就航。
1942年(昭和17年)
5月 ? 大阪商船の内航部を分離し、宇和島運輸ほか5社[注 2]と共同で関西汽船設立。
12月 - 三井物産の船舶部門が三井船舶株式会社として分社化。
戦後
1947年(昭和22年) ? 財閥解体により辰馬汽船が新日本汽船となる。
1964年(昭和39年)
1月 - 山下汽船が新日本汽船と合併して山下新日本汽船となる。
新日本汽船は、もともと清酒輸送のために灘の醸造家辰馬家が1846年に始めた回漕業を前身とする船会社である[7]。
3月 - 日東商船が大同海運と合併してジャパンラインとなる。
4月 - 三井船舶が大阪商船と合併し、大阪商船三井船舶株式会社となる。
大阪商船は当初、日東・大同連合に合流する計画だったが、同社主要株主に名を連ねている住友グループ各社や同社傘下にある第一中央汽船の猛反発を受け、結局この形に収まった。
1965年(昭和40年)- 日産自動車の保証を得て、自動車輸出のための自動車運搬船、追浜丸を建造。
1967年(昭和42年)- 柳原良平デザインのアリゲーターマークがコンテナサービスの象徴となる。
1989年(平成元年)6月 - 山下新日本汽船がジャパンラインと合併し、ナビックスラインとなる。本格的クルーズ船「ふじ丸」竣工。
1993年(平成5年)10月 - 日本海汽船株式会社を合併。
1995年(平成7年)
海外コンテナ船社間での提携、ザ・グローバル・アライアンス締結。
10月 - 新栄船舶株式会社を合併。
1996年(平成8年)4月 - 東京マリン株式会社に資本参加。
1998年(平成10年)- ザ・ニュー・ワールド・アライアンス締結(ザ・グローバル・アライアンスの改称)。
1999年(平成11年)4月 - 大阪商船三井船舶とナビックスラインが合併、株式会社商船三井となる。