.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}山下(やました) 奉文(ともゆき)
(昭和18年)陸軍大将進級直後の山下
渾名マレーの虎
生誕1885年11月8日
日本・高知県長岡郡大杉村(現・大豊町)
死没1946年2月23日 (60歳没)
フィリピン・ラグナ州
ロス・バニョス
山下 奉文(やました ともゆき、1885年(明治18年)11月8日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、位階勲等は従三位勲一等功三級。
高知県出身。陸士18期・陸大28期恩賜。太平洋戦争の劈頭、第25軍司令官としてイギリス領マレーとシンガポールを攻略した武功、「マレーの虎」の異名で知られる[1]。
経歴
生い立ち(現香美市)に生まれる。2歳の時、父親の故郷である長岡郡大杉村(現大豊町)に移る。兄・奉表は海軍の軍医となり最終階級は海軍軍医少将。弟・奉守、妹・照猪、妹・久寿猪の五人兄妹。
暁霞(あかつか)尋常小学校、韮生(にろう)高等小学校、海南中学校(同窓に沢田茂)卒。 広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校(第18期、兵科・歩兵)卒業。見習士官を経て1906年(明治39年)6月26日に陸軍歩兵少尉に任官(広島・歩兵第11連隊附)。1916年(大正5年)11月25日には陸軍大学校(第28期)を卒業(席次は6位、御賜の軍刀を拝受[2])。 参謀本部部員、陸軍省軍務局課員を務めるとともに、スイス・ドイツ・オーストリアにも駐在。帰国後は歩兵第3連隊長、陸軍省軍事課長を歴任し、1934年(昭和9年)8月1日に陸軍少将へ昇進、翌1935年(昭和10年)には陸軍省軍事調査部長となる 妻は永山元彦
軍歴
また、山下は安藤輝三らのちの決起部隊の一部将校が所属していた歩兵第3連隊長を以前務めていて彼らと面識があった。子どもがいなかった山下は部下の若手を可愛がったが、特に安藤を可愛がっていた。安藤は秩父宮雍仁親王にも溺愛され、部下からも慕われるなど人間的な魅力に溢れる人物であった[3]。当時彼らの動向を探っていた片倉衷によれば、打診に来た安藤に「岡田はぶった斬らんといかんな」「もっと垢の取れた案を持ってこい」と無責任かつ味のある言い回し[4]で皇道派の幹部として理解を示すような発言をしており、決起部隊の一味とされても抗弁できないぐらいに踏み込んでしまっていた[5]。 しかし1936年(昭和11年)2月に二・二六事件が起こると、一報の電話を受け取った山下の義妹・永山勝子は、山下は隣の部屋から飛んでくると電話を引き継ぎ「何!……やったかッ」と大声で叫び、そのあとは沈黙したと証言した。彼女によると山下は「陛下の軍隊を使うなんて、自分たちの目的のために使うなんてもってのほかだ」といかにも悔しそうであったともいう[6]。山下は同調者ではないかと周囲からは見られており、山下宅の電話は事件前から逓信省と陸軍省軍務局(事件後は戒厳司令部
二・二六事件
決起部隊が反乱軍と認定されることが不可避となった折に、山下の説得で決起部隊の青年将校らは自決を覚悟した。このとき山下は陸軍大臣と侍従武官長を通じて、彼らの自決に立ち会う侍従武官の差遣を昭和天皇に願い出たが、これは昭和天皇の不興を買うことになった。この件に関して『昭和天皇独白録』には「本庄武官長が山下奉文の案を持ってきた。それによると、反乱軍の首領3人が自決するから検視の者を遣わされたいというのである。しかし、検視の使者を遣わすという事は、その行為に筋の通ったところがあり、これを礼遇する意味も含まれていると思う。赤穂義士の自決の場合に検視の使者を立てるという事は判ったやり方だが、背いた者に検視を出す事はできないから、この案を採り上げないで、討伐命令を出したのである」とある。また『木戸幸一日記』にも「自殺するなら勝手になすべく、このごときものに勅使なぞ、以ってのほかなり」とあり、青年将校を擁護する山下に対し、天皇や元老の評価は極めて低かった。
最終的に、青年将校らの多くが自決せずに投降したとき、青年将校らのいた山王ホテルにやって来た山下は、彼らに拳銃や装具を外し軍刀の所持のみ認めるとし、「覚悟は出来ているか」と彼らに言って、自決する気を失っていた青年将校らを「俺たちに腹を切れということか」と怒らせ、裁判で山下らが自分らに何を言ったかを裁判でぶちまけてやると憤激した者もいたという[7]。
事件収拾後、山下は天皇の信頼を失ったと考えており「奉公の支えをなくした」として軍からの退職の覚悟も固め、その日を反乱軍参加者を多く出して解隊が検討されていた歩兵第3連隊の軍旗奉還の日と決めていたが、天皇により歩兵第3連隊の存続が認められると、軍務継続の覚悟を取り戻し、川島義之陸軍大臣の遺留もあって、朝鮮・龍山の歩兵第40旅団長への転任という形で軍に残った[8][9]。しかし、事件の影響で陸軍の主流から外れることとなった。山下が事件直後に外地に移動になり、中将の時に陸軍航空総監 兼 陸軍航空本部長を務めたことを除き、陸軍三官衙(陸軍省・参謀本部・教育総監部)から遠ざけられて外地の転任に終始したのは、この侍従武官の差遣を天皇に願ったことにより天皇の不信を買ったため、天皇の意向によるとの説をとる者も多い。このように二・二六事件は山下の人生に最後まで大きなマイナスをもたらすことになった。しかし、山下の皇室に対する尊皇心は全く揺らぐことはなく、くつろいで寝そべっているときであっても、皇室、陛下という言葉が出るとそのたびに正座するほどであったし、のちに二・二六事件の話題になるたびに「陛下に申し訳ないことをした。つぐないをしなければならぬ」と唇をかみしめていたという[10]。
日中戦争